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「白村江の戦い」大敗が残した教訓から… 最高の国防体制を構築、敵の侵攻に備え

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産経新聞

福岡県八女市にある「大伴部博麻呂碑」。玉垣に「尊朝愛國」「賣身顕忠」と刻まれている 1/1枚  【国難を乗り越える 日本書紀】

 前稿までの日朝関係と日中関係がクロスする、古代東アジア史のクライマックスの1つが「白村江の戦い」(663年)であろう。

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 隋に代わって中国を統一した唐が高句麗(こうくり=朝鮮半島北部を支配した国家)を圧迫するのを見て、百済(くだら=同南西部にあった国家)と抗争中の新羅(しらぎ=同南東部にあった国家)は唐に臣従した。

 やがて唐は新羅とともに百済にも侵攻し、西暦660年に百済は滅亡、百済の遺臣たちが日本に救援を求めた。

 これに先立ち、第37代斉明天皇の重祚(ちょうそ=譲位後の再即位)翌年(656年)、高句麗・百済・新羅がそろって日本に朝貢してきたことも『日本書紀』に記されているので、半島情勢はいよいよ“複雑怪奇”である。

 さて、日本は百済再興を支援することを決め、斉明天皇の遺志を継いだ中大兄皇子(のちの第38代天智天皇)が即位せぬまま政務を継いで2年目(663年)大軍を朝鮮半島に派遣した。

 しかし、日本・百済連合軍は白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗した。西暦668年に高句麗も唐に滅ぼされ、675年には新羅が唐の冊封(さくほう)を受けたまま朝鮮半島を統一した。

 百田尚樹氏の著書『日本国紀』(幻冬舎)などで広く知られるようになった大伴部博麻(おおともべの・はかま)が唐軍の捕虜となったのは、この白村江の戦いでのことである。博麻は同じく捕虜となった同僚を、自分を奴隷として売らせた金で帰国させ、唐の日本侵攻計画を知らせた。

 博麻が帰国できたのは、第41代持統天皇の即位から4年目(690年)であった。持統天皇は「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠(=朕は、朝廷を尊び、国を愛し、おのれを売ってまで忠を顕したことを感謝する)」と詔し、褒美を与えた。このくだりは「愛国」の語源である。

 幕末には博麻の故郷とされる現在の福岡県八女市に、日清戦争直前には久留米市の篠山神社境内に、顕彰碑が建立されている。昭和戦前期の少年向け読本にも博麻は取り上げられており、戦前日本において戦って死ぬことばかりが美徳とされたわけではないことがうかがえる。

 そして、白村江で大敗を喫した7世紀の日本は“戦後”どうしたか。

 『日本書紀』には、中大兄皇子が白村江の戦いの翌年、対馬(現・長崎県)・壱岐(同)・筑紫(現・福岡県)などに守備兵と烽火(のろし)台を置き、筑紫に大きな水堀を擁する水城(=遺構が一部現存)を築かせたことが記されている。

 都のある東へは高安城(たかやすのき=現・奈良県平群町)まで、南へは鞠智城(くくちのき=熊本県菊池市)まで「山城リレー体制」を構築した。すなわち、大陸からの敵がどこへ進攻しても、そこから烽火のリレーで、都や大宰府(現・福岡県)へすぐに報告が届く。一大公共事業で、当時考えうる最高の国防システムを構築し、敵の侵攻に備えたのである。

 大東亜戦争終結直後には、昭和天皇が白村江以来となる敗戦の奉告と復興祈願のため、天智天皇を祀る近江神宮に勅使を差遣したことが知られている。しかし、1300年後の日本人には、白村江の教訓はまだ届いていないのかもしれない。

■久野潤(くの・じゅん) 歴史学者、大阪観光大学専任講師。1980年、大阪府生まれ。慶應義塾大学卒、京都大学大学院修了。これまで、複数の大学で、歴史や政治、外交関係の授業を担当するほか、戦争経験者や神社の取材・調査を行う。著書・共著に『新島八重』(晋遊舎新書)、『帝国海軍と艦内神社』(祥伝社)、『決定版 日本書紀入門-2000年以上続いてきた国家の秘密に迫る』(ビジネス社)など多数。

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