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【話の肖像画】「世界の盗塁王」福本豊(73)引退も「ついで」だった

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産経新聞

サラブレッドと自身が更新した元世界の盗塁王の子息、バンプ選手(左)とともに競走。西宮球場を沸かせた=昭和58年4月 1/1枚  ■引退も「ついで」だった

  《盗塁の世界記録更新が期待されていた昭和58年。阪急(現・オリックス)は世間をあっと言わせる企画を本拠地・西宮球場で実施した》

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 4月30日でしたね。近鉄戦の前に競走馬を相手に、米大リーグの盗塁王だったモーリー・ウィルスさんの息子のバンプ・ウィルス選手と球場で走りました。馬との競走は嫌やったけど先にマスコミに発表してしまっていたこともあって、球団社長に直々に頼まれて引き受けました。何とかお客さんを呼ぼうと球団も頑張っていたから仕方ない。結局、バンプが優勝しましたけど、馬が脚を滑らせてまともな競走にならなかった。でもお客さんは2万8千人が入ってくれたんちゃうかな。来てくれはったのはうれしかったですよ。

 《その年6月、当時の通算盗塁数の世界記録を更新した。この快挙に当時の中曽根康弘首相は国民栄誉賞を打診したが辞退。その理由が日本中を驚かせた》

 僕は国民の見本になる自信がない。酒を飲む。たばこを吸う。マージャンをする。口は悪い。僕はそんな大きなリュックサックを背負うて、毎日よう歩かん。自分の行動に自信が持てないと、はっきり言いました。その後の担当記者との雑談で、「立ちションできへん」というたら、そのほうがおもろいから、その話ばっかり伝えられるようになった。でも、今でももらわなくてよかったと思っています。

 《翌59年には6年ぶりにリーグ制覇を達成したが、4度目の日本一は広島に阻まれた。その後も「世界の盗塁王」として記録を伸ばしたものの、4年後に意外な形で記録が途絶えることになる》

 体力の衰えは全然なかったのですが、63年にトップバッターで先発したのは23試合だけで、代打ばかり。そんななかで球団の身売り報道がありました。その年の9月ごろ、南海がダイエーへの球団譲渡を発表していましたが、阪急の身売りについては全く知りませんでしたし、噂もなかった。そして10月19日、練習開始の1時間半ぐらい前に監督室に呼ばれ、上田利治監督が「実はな、身売りや」と。僕は「嘘でしょう」と叫び、ヤマ(山田久志投手)は「どっきりカメラがどっかにあるんちゃいますか?」と言っていました。監督は1週間ぐらい前に球団から聞いていたようで、最初に僕ら2人に伝えたかったということでした。

 阪急最後の試合は10月23日、本拠地でロッテとのダブルヘッダーでした。第2試合でヤマが完投してその年の4勝目を挙げ、僕は「1番・センター」で44本目の安打を打った。試合後は引退を表明していたヤマのセレモニーと思っていたら、監督が最後のあいさつで「きょうの試合をもって引退する山田、そして福本…」と言った。監督は「残る福本」と言おうとして言い間違えたと言っていますけど、なんか否定するのも面倒になってそのまま辞めました。監督は頭のいい人で、言い間違いはないと思いましたので。思い返せば社会人野球の松下電器(現・パナソニック)で同じチームだった加藤(秀司、英司)のついでにスカウトされて入団し、最後は同じく同期入団のヤマのついでに現役引退。阪急はほんとに大事にしてくれました。ほんまはもう少しやりたかった。いらんと言われるまで。ノムさん(野村克也さん)みたいにボロボロになるまでやりたかったという気持ちはありました。(聞き手 嶋田知加子)

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