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【話の肖像画】「世界の盗塁王」元プロ野球選手・福本豊(73)上田新体制プレーオフ制す

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産経新聞

近鉄とのプレーオフ第4戦、同点で迎えた九回表に右翼ポール直撃の決勝本塁打を放ち、チームメートに迎えられる(右から2人目)=昭和50年10月、藤井寺球場 1/1枚  《昭和49年のシーズンから、37歳の上田利治監督が阪急(現・オリックス)の指揮を執った》

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 上田監督はコーチでチームにいてはったからね。ずっと「上さん」と呼んでいたから、「上田監督」と呼ぶのに少し時間がかかった。いつも選手を乗せよう、乗せようと、新しい選手が来たら「ええで、ええで」が口癖。「この子どうや。ええやろ」と言いながら、他の選手の闘争心に火をつけようとしてました。

 試合中はほんまにうるさかった。キャンプでもマイクを持って声を出していたね。練習もよく見ていて、(守備練習で)何回か下手をしたら、「邪魔やから、どいとけー」と言われる。若い子はガチガチになってしまうんで、そんなときに僕は「ランナーもいてないんやから、あわてることない」と言ったり、「普通にしたらええねん」と声を掛けたりしていたね。

 《新監督のもとでの1年目、45年から連続している最多盗塁に加えて2年連続で最多安打を記録したが、チームはプレーオフで敗れてリーグ優勝を逃す。翌50年、新人の剛腕投手、山口高志に新外国人選手のバーニー・ウイリアムスとボビー・マルカーノが入団、さらに後に通算代打本塁打27本の世界記録を打ち立てる高井保弘の台頭で選手層はますます厚くなった。上田新体制は勝負の2年目を迎えた》

 50年はプロに入って一番しんどかった。調子が悪くて成績ががた落ち。打率は2割5分9厘(前年は3割2分7厘)で、特に序盤に打てなかった。故障はしてないし、早出練習もしていて、感じは悪くないんです。けれど試合になるとへばって(疲れて)いた。打球は天プラ(フライ)ばっかり、「どうやったら(スランプを)抜けられるんや」と。そのとき思ったのは、休みも練習のうち、ということ。練習をやりすぎて悪い方、悪い方へといってしまった。僕はわりと気分転換はうまい方なんやけどね。試合には出してくれていたけど、つらかった。四球で出塁すると、まずひとつ良かったと思ってしまう。頑張って夏場で盛り返したけどね。

 高志の球は速かったし、投げ方がギッコンバッタンしており、打席に立つとタイミングが取りづらいなと思った。初めての練習で、上田監督は「フク、ええやろ! ええ球を放るやろ」とうれしそうに言っていたのを覚えてます。高志がおらんかったらこの年、優勝はしてない。何かあったら「高志」やった。それにこの年は10勝以上をマークした投手が5人。先に3点ぐらい取られても、ほんま負ける気がしなかった。みんな余裕を持っていた。この年はぶーちゃん(高井選手)が8月のロッテ戦で通算19本目の代打本塁打を打って世界新記録となった。ぶーちゃんが代打でいったら、みんなが「よっしゃ、いってくれるでー」という気持ちになったし、実際打ってくれた。すごかったよね。

 《この年、プレーオフで前阪急監督の西本幸雄氏が率いる近鉄と対決した。3勝した方がリーグ優勝のプレーオフ、阪急は2勝1敗で王手をかけた》

 あんまりよく覚えてないんやけど、第4戦は高志が中3日で先発して、3-3の九回に僕が右翼ポール直撃の本塁打、加藤(秀司)も右中間席へ放り込んで勝利、初めてプレーオフを制した。西本さんの目前で上田監督が宙に舞った。シーズン中もそうやったけど、やっぱり戦っているときはやりづらかった。西本監督は欠点も何もかもみんな知り尽くしているからね。(聞き手 嶋田知加子)

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