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【話の肖像画】「世界の盗塁王」福本豊(73)「じっちゃん」西本監督の思い出

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産経新聞

リーグ制覇を決め、祝勝会で西本幸雄監督(右)にビールを浴びせる =昭和47年9月、西宮球場 1/1枚  《阪急(現・オリックス)入団4年目の昭和47年、シーズン106盗塁で当時の米大リーグ記録を破り、チームもパ・リーグを連覇した。しかし日本シリーズでいずれも巨人に敗れ、日本一には手が届かなかった。そして48年のオフ、監督が西本幸雄さんから上田利治さんに代わった。弱小球団から黄金期へ、11年間続いた「西本阪急」の時代は終わった》

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 西本監督の指導がなかったら、今の僕はいません。自分の中でひとつだけ自慢したい数字は盗塁数でも安打数でもなく、通算208本塁打なんです。体が小さくても打てるようになったのは、監督からバッティングについて口うるさく言われ、癖をつけたから。1年目のとき、監督から両足を踏ん張って、体の回転で打つ打撃を教えてもらった。腰で振るというのかな。バットを振っても体がふらふらしない。「阪急型」、いや「西本型」です。

 オフには毎日、素振りを続けていました。他にも打撃マシンを打ったり、寮に戻ったら庭の木の葉っぱをボールに見立てて、バットでビシッと打ったり。10分が30分、1時間と増えていきました。そしたら2年目のキャンプで、フリー打撃に登板した足立(光宏)さんが急に放り込んだカーブを打ったら、打球がライトスタンドまで飛んでいった。監督はびっくりして「お前、誰に教えてもろたんや」と。「いえ、監督です。監督の言われた通りにやっているだけです」と答えたけど、何回言うても信用しはらへんかった。

 2年目で試合に出始めた頃でした。新聞で当時、南海のコーチだったドン・ブレイザー氏の「(福本は)当てるような打撃をしたら、首位打者を取れるのに」というコメントを読んだんです。ついいい気になって、内野安打を狙って流す打ち方を練習していたら監督から「代わりはなんぼでもおるぞ。使わんぞ! 新聞に書かれていたけど、そんなんすんな」と叱られました。周囲からは足が速いからショートゴロを打てとか、よう言われたけど、そうしてきた人はやっぱり長続きしない。だから余計に僕は長いことできたんかなと思います。監督をみんな怖かったと言うけど、めっちゃ怒っていたという記憶はないんです。黙ってムスッとしているから、怖う見えたんでしょうね。威厳があった。ベテランも若手も自然と練習をガンガンしなければならないような空気感はありましたね。

 《現役引退後は、西本監督のことを親しみを込めて「じっちゃん」と呼んでいる》

 じっちゃんは陸軍、僕のおやじ(豊次さん)は海軍で、軍隊の先輩と後輩になる。「おい、フク。お父さん、元気か」と、よく聞いてくれました。マージャンもよくご一緒しました。キャンプ中や遠征先でね。監督はそれは強かった。勝負師。手堅かったね。あかんと思ったらさっと手を引く。攻めていかへん。僕は必死になっていって、いつも負けていました。でも、やっぱり恐れ多かった。なんか言われるんちゃうかな、と横には近づけんかった。

 《平成23年11月25日、西本さんは逝去した》

 お葬式の前にご自宅に伺いました。もう、ほんまに泣きましたね。僕を(プロ野球選手として)育ててくれたのは西本監督やったから。監督の言葉で思い出すのはプロ1年目、球団事務所で初めてお会いして、声を掛けられたときの言葉かな。「一緒に頑張ろうな」と。(聞き手 嶋田知加子)

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