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【話の肖像画】「世界の盗塁王」福本豊(73)「花の44年組」3年目に開花

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産経新聞

本塁打を放った加藤英司内野手(左)をベンチ前で迎える=昭和54年9月、西宮球場 1/1枚  ■「花の44年組」3年目に開花

 《昭和45年のシーズンに盗塁王のタイトルに輝き、翌年からは1番・センターに定着した。阪急(現・オリックス)に同期入団の内野手、加藤秀司(英司)と投手、山田久志も中心選手として活躍し始め、3人は「花の44年組」と呼ばれるようになった》

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 1学年下の加藤は41年春の選抜高校野球大会にPL学園の「4番・一塁」で出場し、既に騒がれていたし、いつでもプロに行けるという感じやった。でも「まだプロは早い」と僕がいた社会人の松下電器(現・パナソニック)に入ってきた。同じ大阪やし、高校のときから知っているんで、入社したときは天王寺駅に迎えに行って、会社の寮に連れて行きましたよ。

 プロ入り後は打率の計算をうまいことしよるのに驚きました。(性格は)ものすごう神経質。暴れている印象もあるんやけど、実はそうやないんやね。冷静でちゃんと見とるし、細かかった。僕なんか大ざっぱ。今では普通かもしれへんけど、あのころからバットが湿気(しけ)ったらあかん言うて、きちっとジュラルミンケースみたいなのに入れていて、「すごいなあ、お前」とよう言うていました。加藤は道具を大事にしていましたね。僕もスパイクは大事にしていましたが、バットはええかげん。「芯に当たれば飛ぶんや」とその辺に転がしとった。アドバイザリー契約を結んだ(スポーツ用品メーカーの)ミズノの人が2ダースぐらい持ってきたバットを「何グラムを持ったときはこうや」とか言いながら、1本ずつ何度もたたいて音を聞いたり、木目をじっと見たり。僕は「一緒やないか」と言っていましたけど、そうやって選んだバットだから余計に大事にしていました。加藤はミズノさん泣かせやったね。

 加藤は寮時代はよく門限を破っていましたけど、代わりにバットもよく振っていました。成績が良くても1軍になかなか上げてもらえなくて、2軍のコーチとしょっちゅう衝突。最後は手を焼いて、コーチが西本(幸雄)監督に「言うこと聞かへんから1軍に上げてほしい」と訴えた。それで3年目でバーッと上がってきたんです。加藤とはほんまに付き合いが長いね。優しいし、よく気が付くよ。怖いイメージがあるかもしれんけど、そうに見せているだけ。今もオリックスのOB会幹事を一緒にやっているし、ちょこちょこ会うよ。

 《46年のシーズンは自身が67盗塁で2年連続の盗塁王、22勝の山田投手は最優秀防御率と最高勝率、加藤内野手は不動の3番打者としてチームを牽引(けんいん)し、阪急は2年ぶりのリーグ優勝を成し遂げる》

 加藤と僕が初めての自主トレーニングやキャンプで西本監督から叱られているころ、ヤマ(山田投手)はドラフト後に腰を痛めて治療に専念していて、8月にようやく契約にこぎつけた。ヤマは投手で、僕は野手やから一緒に行動したことはほとんどなかったけど、練習でシート打撃をするときなんか、ヤマが他球団やったら対戦するのは嫌やなあと思ったね。46年のシーズンは開幕3戦目を不思議と覚えてます。ヤマが先発して2-2の七回に僕が中前打、そして加藤が決勝2ラン。同期が活躍した記念すべき勝利となりました。「44年組」もそうだけど、あのころの選手はみんな体が強かった。けがしてもみんな、きちっと治して復活している。あのころの選手はよう練習していたね。周囲が練習していたら自分もやらなと思うし、新聞を見て成績が負けていたら、やっぱり自分もやらなと思っていたね。(聞き手 嶋田知加子)

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