記事詳細

【話の肖像画】「世界の盗塁王」福本豊(73) 高3で甲子園「あっ、負けた」

更新
産経新聞

プロ野球評論家の福本豊さん=兵庫県西宮市(恵守乾撮影) 1/2枚  ■高3で甲子園「あっ、負けた」

 《昭和40年夏、大鉄高(現・阪南大高)3年生のときに大阪府大会を勝ち抜き、甲子園に出場した》

<< 下に続く >>

 僕が1年生のときに就任した網智(あみ・さとし)監督(当時)が「甲子園に行くぞ」と3年計画で熱心に指導してくれたんです。僕は1年生の夏の大阪府大会予選から背番号「9」をもらい、右翼手で試合に使ってもらった。そのため先輩からは目をつけられ、練習が終わってから「ちょっと来い」とよう呼び出されましたね。先輩の「しごき」を受けても、野球がうまくならへんからイヤやったけど。高校には野球をしに行ったわけじゃなく、野球で楽しもうという感じやったのにね。

 大阪府は当時、「私学7強」の時代。3年生の夏の府大会準決勝でPL学園に勝ったときは、ほんまにうれしかった。2年連続で負けていましたから、ユニホームを見るだけで圧倒される。決勝の興国高にも勝つと思わんかった。スイスイ勝って運良く甲子園に行けました。開会式での入場行進は「うわっ、でかあ」と思いながら歩いていましたね。

 《府大会に続き、甲子園でも「1番・中堅手」で出場。初戦、この大会で4強入りした秋田高と対戦してサヨナラ負け。苦い思い出となった》

 試合は忘れられへん。3-3の延長十三回裏で向こうの攻撃。2死三塁で、打球がフラフラと二塁ベース後方に上がった。それを中堅手の僕も二塁手もパッと見てしもうて、お見合いした。ポテンヒットです。一瞬、ポカンとして「あっ、負けた」と。二塁手はちょっと泣いとったけど、僕は知らん顔。悪いことをしました。やっぱり僕ですね。外野手がそのまま真っすぐ捕りにいったら、すんなり捕れていた。どっちも声を出していたと思うんですけどね。悔いの残るプレーだった。もし、捕っていたら十四回は僕が先頭打者で、「今度は自分からやな」と用意しとったんやけど。この試合、初回に僕が四球で出塁。盗塁も成功し、次打者が送りバント。それが失策を誘ってヒットなしで1点を取った。簡単に勝てると思いすぎたんやね。あのサヨナラ負けで、守備への意識が高まりました。

 チームで足は速い方でした。練習しているうちに速くなったんかもしれんけど、それでもずぬけて速いわけじゃないし、意識もしていなかった。監督がヒットエンドランが好きで、バントが嫌いやったんです。それで走っているうちに、走塁が面白くなってきたんちゃうかな。3年夏の府大会予選では一度もアウトにならず、十何個か盗塁を決めて、走りまくりました。

 その後はいくつかの大学から誘いはありました。先輩が「うちに来い」と言ってくれたけど、また「しごき」はかなわんなと思っていた。「ちょっと待ってください」と言っているうちに、社会人野球の松下電器(現・パナソニック)が「うちはどうや」と言ってくれたんです。そしたら、世話になっている親戚のおやじさんが「豊、おまえ大学行って4年後に松下電器に入れるか? 今やったら勉強がアホでも入れてくれるやろ。大学に行って月謝はタダでも寮費や何やといろいろお金は要る。4年間働いて入るお金と出ていくお金を考えたら、松下電器の方がええんちゃうのか」と。松下電器は大学と違って理不尽な「しごき」もないと思った。大学に行った先輩で、脱走しとる人もおるんです。それで松下電器の試験を受けに行ったんです。(聞き手 嶋田知加子)

写真一覧

  • 大阪府大会を勝ち抜いて出場した第47回全国高校野球選手権の開会式=昭和40年8月13日、甲子園

ピックアップ

    注目ニュース

      アクセスランキング

      iza! ソーシャルメディア公式アカウント

      • twitter
      • facebook
      • iza!を読む
      ×