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【話の肖像画】「世界の盗塁王」福本豊(73) 中学で野球部…ずっと補欠

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産経新聞

 ■中学で野球部…ずっと補欠

 《小学校5年生のとき、父、豊次(とよじ)さんがラーメンの屋台を始めたことで、大阪市生野区から布施(現東大阪市)に移り住んだ。言葉は荒いが情は厚いという「河内かたぎ」が色濃く残る町だ》

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 東大阪の家は2軒続きの平屋の一軒家で、4畳半の部屋に両親、8畳ぐらいの部屋に兄弟3人でタコ部屋のような感じで寝ていました。家の周りはたんぼばっかり。近所の仲間とずっと野球したり、遊んだりしていました。布施駅前の商店街にあったスポーツ店にはよく道具を買いに通いました。高校1年生のとき、その店でバットを買ったことがあったんですが、店長の奥さんが薦めてくれたのが軟式用のバットやったんです。お互い、硬式用との違いを知らず、ハーフバッティングをしたら1球で折れたなんてこともありました。

 引っ越してからはお母(かあ)はん(文枝さん)は自宅で布団の仕立て直しをやっていました。夕飯はおやじが何でも作っていましたが、お母はんが作った筑前煮や肉じゃがもうまかったですよ。うちは甘口やったね。兄弟でけんかしながらおかずの取り合いをして、とにかく食事のときはにぎやかでした。

 《小学校時代、夢中になったのが「三角ベース野球」。空き地に数人の少年たちが集まると、正方形のダイヤモンドではない三角形のフィールドを作り、日が暮れるまで野球に没頭した》

 昔は面白いものといえば野球ぐらいしかありません。小学校時代は5、6人も集まれば、草むらで柔らかいボールをグーで打つ、三角ベース野球をしていました。足は速い部類ではありましたが、ずば抜けて速いというわけでもない。駆けっこはクラスでだいたい3番ぐらいでしたよ。

 中学校(布施市立第三中学校=現・東大阪市立金岡中)に入ってから準硬式野球部に所属しましたが、ずっと補欠でした。初めて試合に出たのは3年生の夏。年功序列で出ただけで「7番・ファースト」でした。もう一人、同じように身長150センチぐらいのやつがセカンド。外野手には投手兼任の大きな体の子がいて、守るところがなかった。もともと小柄で、卒業の頃にやっと160センチになったくらい。技術に加えて体格面でも恵まれず、部活ではずっと球拾いばっかりでした。それでもみんなでワイワイ言いながら野球をしているのが楽しかったですね。

 練習休みの日曜日には、草野球をしている工場のおっちゃんたちから「人数足らへんから、僕やらへんか」と誘われ、軟式の草野球チームに入れてもらっていました。プロ野球選手になって「小さいときから野球がうまかったのでは」とよく聞かれましたが、まったくうまない。中学校時代までは野球でうまいと言われたことはありませんでした。

 《高校は母のいとこが相撲部監督だった関係で大鉄高校(現・阪南大高)に進学した。当時はPL学園や浪商(現・大体大浪商)、北陽(現・関大北陽)などと並ぶ「私学7強」と称された強豪校だが、野球をやろうとは思っていなかった》

 機械科に自動車コースというのがあったんです。「これからは自動車の時代やから、そこで勉強して整備とかできたらええんちゃう」みたいな感じで入らせてもらいました。野球をしにいったわけじゃありません。中学校の監督やコーチからも「野球部にはええ選手がぎょうさんおるから入るのはやめとけ。無名なチビがいってもまた球拾いやろ」と言われました。(聞き手 嶋田知加子)

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