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【話の肖像画】歌舞伎俳優・中村鴈治郎(62)(8)暗中模索の20代に…

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産経新聞

NHK連続テレビ小説「おちょやん」でも存在感を発揮する中村鴈治郎さん=大阪市浪速区(安元雄太撮影) 1/2枚  《両親の学業優先の考え方で、中学、高校時代は歌舞伎の舞台に出演せず、三味線などの習い事もしてこなかったという鴈治郎さん。厳しい試練が訪れたのは18歳のときだった》

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 大学に入って、「じゃあ、やってみるか」という感じで歌舞伎の舞台に出ることになったのです。忘れもしません。東京の三越劇場の若手歌舞伎。ところが本当に何もできない。稽古の仕方すらわからなかったのです。これは大変なことになったと、がくぜんとしました。

 《そのときの演目が「弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ) 稲瀬川勢揃(いなせがわせいぞろい)」。鴈治郎さん(当時、中村智太郎)の役どころは赤星十三郎で、弁天小僧は、十代目坂東三津五郎(みつごろう)さんと市村萬次郎さんのダブルキャストだった》

 その公演で同世代の人たちとの差をものすごく実感したんです。これではだめだと思って、自主的に三味線や鳴物(なりもの)のお稽古に通うようになりました。なにしろ、いただくお役、すべて初役ばかりなんです。あるとき、「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」に出演することになったのですが、このお芝居は歌舞伎を代表する人気演目ですから、歌舞伎俳優ならどんな役でもすぐできないといけないといわれるほどのものです。それなのに私は見たこともなかったのですから、できるわけがない。私の20代は暗中模索の時代でした。

 そんなとき、叱りながらも丁寧に指導してくださったのが三津五郎さん。落ち込んでいるときに慰めてくださったのが(十八代目中村)勘三郎さんでした。おふたりがいなかったらどうなっていたかわからないですね。

 《歌舞伎には大きく分けて、それぞれの土地に根差した江戸歌舞伎と上方歌舞伎があり、鴈治郎さんは上方歌舞伎の家に生まれ育った。だが、当時はまだ、上方歌舞伎への意識はほとんど芽生えていなかったという》

 両親は家の中では標準語を使っていましたし、うちが上方歌舞伎の家という認識や、自分がその芸を継承していかなければいけないという意識はまだあまりなかったです。父親から「役者になれ」と言われたこともありませんでした。ただ、今思うと、役者というのは嫌いでできる仕事ではない、ということですね。

 《しかも、戦後の昭和20年代後半から50年代にかけて、関西の歌舞伎界は厳しい時代が続いた。上方の名優の相次ぐ死、娯楽の多様化、文化や経済の東京一極集中などさまざまな原因で、関西での歌舞伎公演は次第に減少していく。そんなとき、鴈治郎さんにとって生涯のエポックともいうべき作品と出会う。「曽根崎心中」だ。東洋のシェークスピアともいわれる近松門左衛門の人気作で、25歳のしょうゆ屋の手代、徳兵衛と19歳の遊女、お初の純愛物語》

 徳兵衛役の祖父(二代目鴈治郎)の休演で、急遽(きゅうきょ)、代役で徳兵衛を演じることになったのです。(聞き手 亀岡典子)

写真一覧

  • NHK連続テレビ小説「おていちゃん」出演の際、同じスタジオで撮影していた祖父の二代目中村鴈治郎さん(中央)と父、坂田藤十郎さん(左)とともに(昭和53年、本人提供)

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