リトアニア「血の日曜日」追悼式典 弾圧経験者「独立は命より重要」

 【モスクワ=小野田雄一】1991年1月の「血の日曜日事件」から30年を迎えたバルト三国・リトアニアの首都ビリニュスで13日、市民らが現場となったテレビ塔周辺や自宅の窓辺にろうそくを灯し、犠牲者を追悼した。当時、現場でソ連軍と対峙(たいじ)し、現在は政府系機関「リトアニアにおけるナチスおよびソビエト占領期の評価のための国際委員会」の事務局長を務めるラチンスカス氏(52)が産経新聞のインタビューに応じ、「死ぬのは怖くなかった。国家の独立は個人の命より重要だったからだ」と振り返った。

 同国のナウセーダ大統領は同日、「ろうそくには二重の意味がある。(独立を勝ち取った)英雄たちだけでなく、勝利のために支払われた犠牲も忘れないということだ」と述べた。

 ソ連圏で80年代後半に高まった民族自決機運の中、ソ連構成国だったリトアニアでも90年、民族派の新政府が発足。他の構成国に先駆けて「独立」を宣言した。ソ連は独立の動きを阻止するため91年1月、ビリニュスに軍を展開した。ラチンスカス氏は振り返る。

 「ソ連は新政府転覆と傀儡(かいらい)政権樹立を試みた。1月7、8日には軍の車両が街を行き来していた。人々は議会庁舎やテレビ塔を守るため『人間の盾』を作った。大学生だった私は1月10日から友人らと議会庁舎の周囲にいた。何かが起きる悪い予感がしていた」

 「13日未明、ソ連軍がテレビ塔で発砲して死傷者が出たとラジオで知った。ランズベルギス最高会議議長(当時)がわれわれの所に来て、犠牲者を増やさないように解散を求めたが、さらに多くの人々が集まってきた。私は『攻撃を受けるだろう。人生最後の日になるかもしれない』と思ったが、死ぬのは怖くなかった。国家の独立は命よりも重要だったからだ。友人もみな同じ気持ちだった」

 結局、ソ連軍は議会庁舎に接近したものの、ここでは攻撃は行わなかった。多数の死傷者が出ることを躊躇(ちゅうちょ)したとみられている。

 「あの13日は決して忘れることはない。十数人の犠牲者や多数の負傷者が出たと知って心が痛んだが、私たちは『独立を守ったんだ』と理解した。あのような実感を得るためにこそ、人生は生きる価値がある」

 リトアニアは20世紀以降だけでもソ連、ナチスドイツ、ソ連の3回にわたる支配を受けた。ラチンスカス氏によると、複雑な歴史の中で各体制への協力者や抵抗者が現れ、各時代の歴史評価は定まっていない。リトアニアには、国民の一部がナチスのホロコースト(ユダヤ人絶滅政策)に協力した苦い記憶もある。

 「同じ過ちを繰り返さないためにも歴史を深く知る必要がある。そのために私たちは働いている」

アクセスランキング

もっと見る

ピックアップ