日本への「懸念」に違和感 「空文化」進む国連人権理勧告

 【三井美奈の国際情報ファイル】

 日本には報道の自由がないのか。

 6月末、ジュネーブの国連人権理事会で、デービッド・ケイ特別報告者の話を聞いて、違和感を覚えた。日本メディアの独立性に懸念を示す報告書を提出した人物だ。日本記者団との会見で、「自分たちの権利を訴えるネットワークを作れ」と語った。政府のメディア弾圧と闘え、ということらしい。

 長年記者をやってきたが、自分がそんなひどい状況にあるとは思わなかった。日本には優れた調査報道をやっているフリー記者も多い。ケイ氏は読んだこともないのだろう。

 ケイ氏の見解は「日本政府の報道への圧力」を裏付けたとして、世界各国のリベラル派や安倍晋三政権への批判派に引用される。その是非はさておき、世界全体の人権状況の中で、日本はそれほど喫緊の課題なのか、という疑問が沸く。

 国連人権理といえば、国連加盟国がともに人権問題に取り組む機関のように聞こえるが、実態は異なる。

 米ニューヨークの国連総会や安全保障理事会と違い、ここでは学者と非政府組織(NGO)が重要な役割を担う。各国を審査し、勧告を出す特別報告者や条約委員会の委員は、みんな民間の学者や専門家。ケイ氏も米カリフォルニア大の教授だ。彼らは国連の委託を受け、個人の資格で審査する。

 つまり、勧告は「国連の声」のようで、現実には一学者、あるいは学者で作る委員会の見解なのだ。

 規定によると、報告者や委員は調査日程を独自に組む。政府外の関係者との面談は非公開が原則。人権侵害の被害者を政府の弾圧から保護するためだが、現実には、ロビー力のあるNGOが勧告を左右する。報告者や委員は、情報収集をNGOに頼るためだ。

 いわゆる慰安婦問題がよい例。政府が「2015年の日韓合意で解決済み」と何度訴えても、「責任者の処罰を」「合意は被害者中心ではない」と執拗に各委員会の改善勧告が繰り返される。日本に批判的なNGOの努力の結果だ。勧告に拘束力はないものの、「国連文書」として積み重なれば、政府への圧力になる。

 人権理に悩まされるのは日本だけではない。

 最近、欧州では国内司法で主張を却下された原告が個人通報制度を使って人権理に訴え、政府に圧力をかけようとするケースが相次ぐ。この制度は「一貫した組織的な人権侵害」を対象にしたもの。「人権大国」のフランスでは、警察のデモ対応から延命医療の是非まで、国内の問題が頻繁に人権理に持ち込まれる。

 国連は「途上国も先進国も平等」が原則だから、一般審査は順番に、全加盟国を対象にする。この「平等主義」も喫緊の問題への対応をにぶらせる一因だ。

 ケイ氏の報告書では、日本とともに中東やアフリカの状況も記された。「報道機関の閉鎖を止めよ」(トルコ)、「民兵を解体せよ」(コートジボワール)などの勧告と、日本への勧告が同列で扱われることに違和感を覚えざるを得ない。ケイ氏は今回、人権理に出した別の報告書で、政府のデジタル監視の広がりに警鐘を鳴らし、「中国政府は顔認識技術でウイグル人住民を監視している」と追及した。「日本の報道」と比べ、どちらの緊急性が高いかは自明のことだ。

 国家外交が立ち入らない人権侵害に、国連が光を当て、犠牲者を救う。人権理はこんな理想主義から生まれた。中国のウイグル人弾圧、サウジアラビア人記者の殺害問題など、国家責任に正面から切り込める国際機関は、いまや人権理だけだ。司法制度が正常に機能している国に、わざわざ干渉している場合ではない。

 理事会は06年、国連の人権への取組みを強化するため、前身の人権委員会に代わって設置された。「強化」の結果、公金と時間の無駄遣いが増えるだけなら、本末転倒だ。勧告の「空文化」が進むだけだろう。(パリ支局長・三井美奈)

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