奈良・高取町ののろし台跡、国内防衛の緊張感示す 九州から1日で届く連絡網

 奈良県高取町で白村江の戦いを受けて設置されたとみられるのろし台跡が見つかり、同町教育委員会が20日に命名、発表した「佐田タカヤマ遺跡」。唐の侵攻に備え、朝廷は西日本に防人(さきもり)を配備、山城を各地に築き、防備を固めていた。見つかった遺構からは、異変をいち早く察知しようと防衛網をはりめぐらせていた当時の緊張感が伝わる。

 隋に代わり中国を統一した唐は7世紀後半、最盛期を迎え、百済に続き高句麗も滅ぼす。東アジア情勢が激変する中、日本書紀天智3(664)年の条には「対馬、壱岐、筑紫国などに防人とのろし台の烽(とぶひ)を置いた。筑紫に大堤を築き、水を貯えた」と記されている。

 泉森皎・元橿原考古学研究所副所長(考古学)は「緊急連絡用につくられたのろしのネットワークにより、天候がよければ九州の大宰府から飛鳥(奈良)の都まで、1日で情報が届いた可能性がある」と解説する。

 奈良時代の軍防令によれば、国内ののろし台の間隔は約20キロ、1カ所に4人の要員が配置されていた。泉森氏は「煙以外に鏡で太陽光を反射させ、連絡を取った可能性も考えられる」と指摘する。

 結果的に唐の侵攻はなかったものの、朝廷は西日本の要衝に防衛施設を次々に建設。対馬(長崎)に金田城、筑紫(福岡)の大宰府の北側には大野城を築いたほか、讃岐(香川)に屋嶋城、大和(奈良)には最後の拠点として高安城を築城した。こうした城にものろし台を設けたとみられる。

 特に都周辺には集中的に設置されたと考えられ、飛鳥宮跡(明日香村)周辺には「火振(ひふり)山」など関連するとみられる地名が約20カ所に残る。大和三山の一つの畝傍(うねび)山にものろし台があった可能性があるという。

 相原嘉之(よしゆき)・奈良大准教授(考古学)は「白村江の戦い前後は国際関係が最も緊迫した時期。今回見つかった遺構は監視も兼ねた防衛通信施設で、都の防衛網ができあがっていたことを示す証拠の一つだ」としている。

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