長渕剛さんに背中押され「お前ならやれる」 パラアスリート・三浦浩さん 来夏の東京に挑む

 【負けるもんか】

 脳みそがはじけるような「パチン」という破裂音とともに、全身に激痛が広がった。「誰が俺のカバーをするのか」。担架に乗せられ、救急車で病院に搬送される間も、三浦浩さん(54)は仕事のことを考えていた。

 有名歌手のコンサートスタッフとして活躍していた17年前の平成14年4月。松山市で行われたコンサートを終え、トラックの荷台にスピーカーを積み込もうとしたとき、フォークリフトが突然倒れてきた。

 とっさに両手で受け止めたものの、400キロほどの重さが背骨にかかり、骨折した。「脊髄が切れている。もう歩けないでしょう」。病院で医師から告げられた言葉で、深刻な事態をようやく理解した。

 もともと、フォーク少年だった。小学6年ごろから趣味でギターを弾き始め、歌手を目指したこともあったが、「普通に高校を卒業し、民間企業に就職した」。働き始めて2年がたったころ、大ファンだった長渕剛さんの武道館コンサートに足を運んだことが運命を変えた。

 熱い歌声と会場の熱気に高揚する中、舞台袖できびきびと動き回るスタッフの姿にくぎ付けになった。華やかな舞台を陰で支える黒子役。「あそこで働きたい」。いったんはあきらめた音楽の世界で勝負しようと決めた。

 会社を辞め、音響関係の専門学校に入学。機材の調整などを手がける「ローディー」になった。目指したのは、長渕さんのコンサートスタッフ。音楽スタッフは通常、所属事務所を通じて仕事が割り振られるが、いつ声がかかっても駆けつけられるよう事務所を辞めてフリーになった。

 収入は安定せず、引っ越しのアルバイトで糊口(ここう)をしのいだ時期もあった。「夢のためなら迷うことはなかった」。ほどなく、念願だった長渕さんのスタッフの座を射止めた。

 結婚して2人の子供に恵まれたが、帰宅できるのは1年で3カ月程度。長渕さんの仕事に対する要求も厳しかった。それでも充実感に満たされていた。そんな生活が、14年の事故で根底から揺らいだ。

 術後1週間が経過し、ようやく体を少し動かせるようになったころ。突然、携帯電話が鳴った。

 「どんな状況なんだよ」。忘れようもない独特のハスキーな声。長渕さんからだった。

 「これからどうなるのか」「働き口はあるのか」…。そんな自身の不安な心中を察するように、長渕さんは落ち着いたら入院先の松山から東京に戻るよう告げ、転院先を紹介してくれた。

 そして半年ほどが過ぎ、車いすで生活できるようになると、長渕さんの専属スタッフとして現場復帰を果たした。

 再び転機が訪れたのは、事故から約2年半後。もっと身軽に車いすで動けるよう体を鍛えようか。ぼんやり考えていたとき、下肢障害者対象のベンチプレス競技「パワーリフティング」を紹介する雑誌の記事を見つけた。

 ちょうど、アテネパラリンピックが開幕した時期。フォークリフトの400キロという重さに人生を変えられたが、不思議とバーベルへの恐怖は感じず、「今度はどんなに重くても持ち上げる」と闘志が湧き上がった。「パラリンピックの選手になります」。気づけば周囲に宣言していた。

 始めたころは40キロのベンチプレスを1回あげるのが限界だったが、徐々に高重量を持ち上げられるように。ただ、高みを目指せば目指すほど、コンサートスタッフの仕事との両立は難しくなってきた。

 悩んだ末、ロンドン大会を翌年に控えた23年、長渕さんにスタッフを辞めたいと申し出た。「お前ならやれるんじゃないの」。尊敬する人に背中を押され、障害者アスリートを雇用する制度のあった外資系証券会社に移った。

 ひたすら競技に打ち込み、念願だったパラリンピックにはロンドン、リオデジャネイロの2大会に出場。リオ大会で念願の入賞も果たした。今では体重の2倍を超える重量を軽々持ち上げるまでになった。

 自分が生まれた昭和39(1964)年の前回東京大会は、パラ・パワーリフティングが正式種目になった年だ。「生まれたときから、運命が決まっていたのかもしれないと思うことがある」

 令和時代に入り、来年夏に迫った東京大会も選手として出場を目指す。くじけそうになったときに文字通り、自分を支えてくれた長渕さんの曲を聴きながら、今日もバーベルと格闘している。(吉原実)

 ■三浦浩(みうら・ひろし) 昭和39年10月14日生まれ。東京都出身。東京ビッグサイト所属。長渕剛さんや松田聖子さん、さだまさしさんら有名歌手のコンサートスタッフとして勤務。事故で脊髄を損傷後、パラ・パワーリフティング競技と出合い、パラ選手となる。初出場のロンドン大会では9位、前回リオ大会では5位入賞。49キロ級の日本記録(135キロ)保持者。

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