京アニ放火 石田敦志さんの父親会見詳報(中)「敦志は親孝行だけをして逝ってしまった」

 《アニメ制作会社「京都アニメーション」第1スタジオで発生した放火殺人事件の犠牲者として身元が公表された石田敦志さん(31)=京都府宇治市=の父、基志(もとし)さん(66)の会見は、報道陣との質疑応答に移った》

 --お子さまを亡くされてとてもつらい思いをされている中、このような会見の場を設けていただき各社を代表してお礼申し上げます。敦志さんはお父さまにとってどのような存在でしたか。一番忘れられないエピソードを教えていただけないでしょうか

 「敦志は私ども家族にとって唯一の男の子でした。それも末っ子でしたので、同性の男親の私としては、彼が家内のおなかに入って、男の子だということを告げられたときから本当に有頂天でした」

 「敦志は人と争うことがものすごく嫌いで、実は私と正反対でした。敦志は人と争う、競うことが非常に嫌いな人間でした。かといってスポーツをやらないということではない。スポーツは人並み以上で、サッカーも水泳も全てやれたんです。ただ、体育会系の私としては相手に勝つ、そういう競う楽しみを好まないんだなと感じたのをよく覚えています」

 「敦志は非常に親思いでした。特に私と性格が正反対だったせいか、非常に馬が合いました。家族旅行もたくさんしましたが、私にもたくさん付き合ってくれました。私どもは福岡に住んでいますが、鹿児島の指宿に日帰りとか、ドライブではちょっと無理があるような遠出でも非常に快く付き合ってくれました。そんな優しい子でした」

 「2010年の『けいおん!』を皮切りに、記憶しているだけでも30以上の作品に参加しているはずです。テレビ放映があれば、どこのチャンネルで何時から(放送が)あるよと。映画の作品であれば必ずチケットを送ってくれました。エンドロールに石田敦志の名前を見ることが私ども家族一同楽しみで、何度も夢と希望を与えてくれました」

 「ただ私が一番残念なのが、敦志は親孝行だけをして逝ってしまいました。私は彼には何もしてやっていません。夢の京都アニメーションに採用していただいのも全て彼の努力です。情報工学をやりながら夜間のアニメーションの専門学校にいき、両方見事に両立して、そしてこの有名な京都アニメーションに採用していただきました」

 「私が今日ここに、みなさんの前にみっともない姿をお見せできるのも、生き残った私どもが唯一皆さまに敦志のことを多く知っていただきたい、それしか私どもにはできることがありません。そういう思いで今ここに座っております」

 --夜間の専門学校でアニメを学ばれたというお話ですが、大学に通いながら専門学校に通われたのですか

 「そうです」

 --京都アニメーションに進むお気持ちは、敦志さんからの発案ではなくてお父上の提案でしょうか

 「もちろん第一希望は京都アニメーションだったと聞いていますが、やはり一人息子なので将来不安があるような進み方は止めたいという思いが強くて。アニメーション関係の会社が一体どういう環境なのかということを私なりに調べさせていただきました」

 「ある雑誌だったと思うのですが、八田ご夫妻のいわゆる企業理念を読みました。敦志が入社したのは10年前になりますので、やっとそのころにみなさんの頑張りで『けいおん!』や『AIR』が評価をされた時期なのですが、まだまだ自社制作が完全に軌道に乗っている時期ではありませんでした。だけどもクリエーターを大事にしたいという思い、それと今からの企業展開をぜひ自社完結型で、しかもクリエーターの生活保障ができる会社にしていくんだというのを見たときに、失礼ですけども他の会社とは明らかに違うなと思いました」

 「素人調べではあったのですが、かなりのハードルが高い(ことが分かりました)。質の高い作品を作っているので当然クリエーターへの注文も高い。そういう人材しか採用しない。敦志が果たしてそこまでの技量があるのか、私としては未知数でした。それで、半分は諦めてほしいという思いもあり、情報工学もやっていましたので、十分生活はできていく環境にあると私は思っていましたので、京都アニメーションに採用されるなら自分は応援するよと」

 「私なんかが若いころだとかなり反発したと思うのですが、あの子は本当に優しい子で『分かった。頑張る』と。だからもう全然もめたということはない。ただ採用通知を見たときはさすがの私も舌を巻いたと申しますか、正直びっくりしました。そのころは私なりに勉強していましたので、京都アニメーションのレベルがどこにあるかというのをある程度理解していたつもりだったので、採用通知を見たときは何度も確認しました。何か誤字があるんじゃないかと。だけども実際そういうことでした。実際に私が本社にごあいさつに行って、(八田専務らから)お話を聞いたときのあの感激は本当にこれは本物だなと思いました」

 --敦志さんは2009年の春に入社されて、丸10年お勤めですか

 「そうです。今年で10年目だったと思います」

 --参加された作品で、特に思い入れがおった作品のエピソードはありますか

 「それは何と言っても最初に石田敦志という名前が出た『けいおん!』の2作目です。初めて石田敦志という名前が出たときはさすがにうれしそうでした。ほとんどそういうことを言わない息子でしたが。これはうれしそうでした」

 --一緒にごらんになったのですか

 「いえ。テレビ放送なので、私どもは録画して見ました。敦志は時間が取れれば福岡によく帰ってきてくれていたので、その直後ですかね。ちょうど制作と制作の間に時間が取れたということで帰ってきてくれたんですね。多分それは無理やり時間をつくって、そういう自分の感激を、当然喜んでくれるであろうわれわれ家族に直接言いたかったのではないかと、後に家族で話しました」

 --どんなことを話されていましたか

 「こういうところが難しかったとか、『動画も振り向くシーンがくるっと首が回るんじゃないんですよ』と。人間の振り向く姿というのはただ物が回転するのではなくて、それが自然にきれいに見えるのは、人間の動作そのものを表現しないとできないというような、まるでベテランが言うような。多分、先輩の受け売りだったと思うんですけどね。そういうことを本当にうれしそうに言っていた。なかなかそういう表情は見せないんですね。はにかむ程度の笑顔が一番敦志の印象として残っているくらいで。ああいううれしそうな姿はなかなか見られなかったですね」=(下)に続く

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