「禁区」に続くシングルが本当の勝負 作品や衣装にも発揮し始めた自身のセンス

【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】

 デビュー2年目の1983年。6枚目のシングル『禁区』が発売(9月7日)され、賞レース対策が本格的にスタートする秋口のことだった。ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)と所属事務所「研音」との間では次回作について議論が交わされていた。

 来生えつこ(詞)と来生たかお(曲)の姉弟を起用しての『スローモーション』『セカンド・ラブ』『トライライト-夕暮れ便り-』という、いわゆる“バラード3部作”と、大手広告代理店のコピーライター上がりで、まだ作詞家としては駆け出しだった売野雅勇を抜擢(ばってき)した『少女A』『1/2の神話』、そして『禁区』の“ツッパリ3部作”に続くシングルである。

 それは84年の第1弾として発売されるものだった。当時の様子を見聞きした音楽関係者が思い返す。

 「82年デビューの中で明菜はやや出遅れ感があったんです。で、そういった部分をカバーするためにコンセプトを重視し、当初からボーカルを生かし、企画性も伴った作品を前面に出して勝負してきました。結果、他のアイドル歌手と差別化を図る作品作りができたし、ある意味でアイドルという概念を突き破ったともいえるでしょう。それだけに、次のシングルが明菜にとって本当の意味での勝負曲だと誰もが感じていたはずです」

 それまでの6作品は多少の紆余(うよ)曲折はあったもののデビュー前からの基本路線だったわけだが、それが「『禁区』を発売したあたりから明菜の自我が目覚めてきたように感じ始めた」と言うのはワーナーで明菜の宣伝を担当していた田中良明(現在は「沢里裕二」名義で作家活動)である。

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