F1撤退決めたホンダの裏事情 世界EVシフトでガソリンエンジン開発の意義低下

 15年にマクラーレンへのPU供給で7季ぶりに復帰。第4期はマクラーレンからレッドブルなどへパートナーを替え、19年のオーストリアGPで13年ぶりとなる復帰後初勝利を挙げた。

 第4期に5勝、通算で77勝を挙げているが、販売不振が原因で英国工場での四輪車生産は21年中に中止し、欧州生産から撤退する。F1は22年に大規模なレギュレーション変更が控える。ナカニシ自動車産業リサーチの中西孝樹代表は「F1で勝ってもメリットはなくなった。資本の観点から撤退は当然」と語る。

 今季のF1はコロナの影響で開催地は欧州やその近隣地域だけにとどまる。自動車業界関係者は「全世界に技術やブランドをアピールする機会が失われたのは痛い」と指摘する。

 ホンダはF1に小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」の技術まで投入し、年間で数百億円とされる費用を投じてきた。八郷社長は「カーボンニュートラルを実現できる若い技術者が育った」と成果を強調する。

 とはいえ、自動車メーカーとモータースポーツは切っても切れない関係だ。

 トヨタ自動車は18~19年にルマン24時間、世界ラリー選手権(WRC)、ダカール・ラリーを制覇。今年9月にはルマン24時間で3連覇を達成した。電動車シフトの加速に伴い、欧州勢の独ポルシェや独アウディなどは「EVのF1」と呼ばれる「フォーミュラE」に注力する。

 八郷社長は「ホンダのDNAはレース。現在参戦しているレースは引き続き熱い情熱を持って参加したい」と語った。一方で、電動車レースへの挑戦については「具体的には考えていない」と述べた。

 「100年に1度の大変革期」にあるとされる自動車業界。F1完全撤退で、ホンダが生き残りに向けて加速できるか注目される。(経済本部 宇野貴文) 

■1980年代に黄金期 ホンダF1の歴史

 ホンダは創業者の本田宗一郎氏の下、1964年にF1に初参戦。同年から68年までを第1期とし、黄金時代を築いた第2期(83~92年)、リーマン・ショックで撤退するまでの第3期(2000~08年)、現在に至る第4期(15年~)まで参戦と撤退を繰り返し、通算77勝を挙げた。

 第1期の最初に投入した「RA271」は初めてF1を走った日本製マシン。エンジンと車体の両方を自前でそろえる「フルワークス体制」で、同社はホームページで「純日本製F1マシンは、欧州中心のF1界に衝撃を与えた」と紹介している。参戦2年目の65年は、新型マシンに搭載したエンジンで抜群の加速性能を実現。最終戦のメキシコGPで初優勝したが、低公害エンジン開発を理由に68年で活動を休止した。

 1983年からの第2期はエンジン供給の形で復帰。ウィリアムズ・ホンダが86~87年、マクラーレン・ホンダが88~91年にそれぞれ製造者部門で優勝して黄金期を築く。ウィリアムズではマンセル(英国)やピケ(ブラジル)が計23勝、マクラーレンではセナ(ブラジル)やプロスト(フランス)が計44勝。88年は16戦のうち15勝を挙げる快挙を成し遂げた。87年にはロータス・ホンダで中嶋悟が日本人初のF1ドライバーになった。92年を最後に撤退した理由は販売不振だった。

 第3期の2000年からはBARなどへエンジン供給。BARのF1撤退を機に06年からは再びフルワークス体制で参戦した。バドン(英国)が1勝を挙げ、佐藤琢磨らがドライバーを務めたスーパーアグリにもエンジンを供給。07年は環境の重要性を宣伝するため、地球をイメージした白と緑を基調とした彩りの車体を採用した。伝統的な広告デザインの車体を刷新して注目を集めたが、リーマン・ショックによる業績悪化で08年限りで撤退した。

 15年からの「第4期」はマクラーレンへのパワーユニット(PU)供給で7季ぶりに復帰。現在コンビを組むレッドブルのフェルスタッペン(オランダ)らの活躍で昨年の第9戦オーストリアGPで13年ぶりの頂点に立つなど、復帰後5勝を挙げていた。

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