真珠湾を背負った父 前統合幕僚長・河野克俊氏

 【話の肖像画】前統合幕僚長・河野克俊(64)(5)

 〈河野氏の自衛官人生を振り返るとき、旧海軍軍人だった父、克次さんの存在は切っても切れない。必ずしも明確な進路の目標を持たなかった息子の背中を押したのも、結果的には父親だった。真珠湾攻撃の経験をよく語っていたことなど、今も振り返ることは多い〉

 父は明治43年、大分県に生まれ、旧制中津中学校を出て当時、京都府舞鶴にあった海軍機関学校に進みました。海軍の機関科の士官を養成するための学校です。

 昭和7年に卒業し(海機40期)、当初は水上艦に乗っていましたが、その後、潜水艦の方に進みました。真珠湾攻撃があった16年は30歳を過ぎた頃です。潜水艦の機関長として参加しました。

 12月8日、機動部隊とは別に特殊潜航艇による攻撃が行われました。5隻の潜水艦が参加し、父はそのうちの1隻「伊16」の機関長でした。作戦は、各潜水艦に搭載した2人乗りの特殊潜航艇を真珠湾の湾口から港内深くに発進させ、至近距離から米艦艇に魚雷攻撃をしかけるものでした。

 父が発進させたのは、横山正治中尉、上田定(かみた・さだむ)2曹を乗せた「横山艇」でした。この攻撃は特攻作戦ではなかったのですが、結果的に潜航艇は5隻とも帰還しませんでした。潜航艇に乗った10人のうち9人が亡くなり、残る1人は酒巻和男少尉で、大東亜戦争の捕虜第一号となった方です。後にトヨタに入り、ブラジルの現地法人の社長をされました。

 〈特殊潜航艇の戦死者9人について、大本営や海軍は17年3月、2階級特進を発表。9人は「九軍神」と呼ばれるようになった。捕虜については伏せられた〉

 横山さんは鹿児島出身の方で、戦後、ご遺族が父の再就職先の大阪・茨木市を訪ねてこられました。最後はどんな様子だったのかを聞きたいということでしたが、父は「私の乗った潜水艦から発進しました」と説明し、最後に握手をして送り出したこと、とても立派な態度だったことなどを話していました。私は小学生でしたが覚えています。

 父は戦後、海上警備隊などを経て海自に移り、私が生まれたときは初代の函館基地隊司令をしていました。酒が好きな父で、酔っ払うと必ず語り出すのは、洞爺丸事故で救難の指揮をとった話と真珠湾でした。

 〈27年に設置された海上警備隊は同年、総理府の外局として保安庁が創設されると、警察予備隊とともに保安庁の傘下に入った。29年に保安庁が防衛庁に移行し、海上自衛隊が発足。父、克次氏はその移行期を経験している〉

 退官後、大阪の民間会社に再就職しましたが、晩年、講演活動なども行っていました。私が52年に防衛大を卒業し(防大21期)、翌年に遠洋航海から戻ってきた直後、大阪での講演中に脳出血で倒れました。病院に運ばれましたが、数週間後亡くなりました。最後の講演でも真珠湾の話をしていたそうです。最後まで真珠湾を背負っていたのでしょうね。

 横山さんたちの戦死は尊いものと評価していました。真珠湾攻撃について否定的なことを言うのは聞いたこともありません。(聞き手 石井聡)

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