『この世の喜びよ』。まるでバッハの教会音楽のような題名と「芥川賞受賞!」の大きな文字にひきつけられ、純文学もいっぺん読んでみよか、と思ったのです。表題作の他に「マイホーム」と「キャンプ」の短編2編。この作品集のどれもが普通の日常を描いた物語でした。
が、受賞作「この世の喜びよ」は読み慣れない読者には難物です。特別なことは何も起こらず、何が「喜び」なのか、「あなた」と呼びかける文体もなじみにくく、結局6回も読み返しました。購入した本屋さんに電話して何が書いてあるのか解説してもらおうと思ったぐらいです。
ところが、です。不思議なもので慣れてくると少しは味わえるようになりました。「あなた」と呼びかけられている主人公はショッピングセンターの喪服売り場で働く中年女性、穂賀さん。勤務シフトの休憩時間に交わす同僚女性とのなにげない会話やフードコートにいつも一人でいる女子中学生とのやりとりがあり、ゲームセンターのお兄さんやメダルゲームに没頭するおじいさんが登場します。そこにはさまれるのが二人の娘を育てた穂賀さんの回想でした。
穂賀さんの長女は勤め始めた20代。ちょうど私の孫娘と同じ年頃で穂賀さんが私の娘と同じぐらいでしょうか。「娘というのは、何か意に染まないことを言われるとすぐふてくされてしまう」や「娘ってすぐ嘘を吐く」など、私の記憶と重なり親近感が湧きます。
「思い出すことは世界に出会い直すこと」と書いてありましたが、そんなささやかな日常や回想が「喜び」の正体のように思います。
気になった「あなた」ですが、語るのは誰なのでしょう。いや、誰でもないのかもしれません。いやいや、もう一人の穂賀さん? やっぱり心の声ですよね。純文学ってややこしい。
大阪府河内長野市 中畔美代子(79)
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