鈴木氏も帰国直前だった16年7月、北京国際空港で「北京市国家安全局」に拘束された。それまで、200回以上に訪中し、日中交流に貢献してきた中での出来事だった。
拘束後の7カ月、古い施設の一室に閉じ込められ、1日2~3回、別の部屋で取り調べを受けたという。鈴木氏が辛い時期を振り返る。
「部屋はカーテンが閉め切られ、日の光は入らない。太陽を見たのは、拘束1カ月後に15分間だけ。部屋には監視カメラがあり、常に監視員に見張られた。食事は朝は蒸しパン、昼と夜はご飯とおかず一品だけ。本を読むこと、書くこともできない。弁護士にも面会させてもらえなかった」
17年に起訴された。「日本政府関係情報機関の代理人として情報収集した」「中国外交関係者と13年12月に会食した際、北朝鮮に関する会話を交わした」などが罪状だった。19年に懲役6年の実刑判決を受けた。未決勾留日数を引かれて釈放となり、22年10月に帰国した。鈴木氏は続ける。
「最初に罪状があるのではなく、拘束後、罪に当てはまりそうなものを捜して起訴されたように感じた。いくら、『人権侵害だ』と抗弁しても聞き入れられない。供述調書に署名を強いられた。私は、習国家主席の一派との対立が取り沙汰された共産主義青年団とも交流を持っていた。国内の派閥抗争に巻き込まれた可能性もある」
アステラス製薬の現地法人幹部は、中国に進出する日系企業の団体「中国日本商会」の幹部を務めたこともあるベテラン駐在員だった。「誰でも拘束される可能性がある」(日系企業関係者)のだ。