バレーボール男子日本代表セッターとして、2021年東京五輪にも出場した藤井直伸さんが10日、31歳の若さで逝去した。昨年2月に「胃がんのステージ4」であることを自身のインスタグラムで公表し、闘病生活を続けていた。「前を向いてこの病気に打ち勝つという強い意志を持っています」と決意をつづっていた藤井さん。強気のトスワークで所属チームにタイトルをもたらすなど、コート内外で勇気ある姿勢を貫いた希代の司令塔だった。
藤井さんの訃報に接した多くのバレー関係者は、早すぎる別れを惜しんだ。男子日本代表のフィリップ・ブラン監督は「あなたは世界で最も美しいBクイック(セッターからやや前方での速攻)を持っている」と自身のフェイスブックに記し、代表主将の石川祐希(ミラノ)は「みんなに元気を与えてくれる笑顔、どんな時でも全力で気迫溢(あふ)れる闘志、一生忘れません」と自身のインスタグラムにつづった。
「目を閉じれば、藤井の人懐っこい笑顔が浮かんでくる。これだけ人に好かれ、愛された選手はいないと思う」「どんな状況でも気持ちを全面に出して闘う藤井の姿は一生忘れない」。インスタグラムにこうつづったのは、08年北京五輪代表アタッカーの福沢達哉さん。次の一節は「日本のバレーボールを変えた男」だった。藤井さんはまさしくそう思える選手だった。
16~17年、日本の男子バレー界を席巻したのは、入団3季目の藤井さんが正セッターを担った東レ。全日本選手権を3大会ぶりに制すと、2季前に下部との入れ替え戦を経験したリーグでも8季ぶりの頂点に立った。強さの原動力は鋭いサーブ、そして藤井さんならではの速攻を活用した多彩な攻撃だった。
センター(ミドルブロッカー)がセッターからの短いトスを素早く振り抜く速攻は、うまく使えば相手ブロックを分散させられるが、サイドアタッカーへの長いトスに比べて空中での修正が効かない分、センターとセッターの双方に阿吽(あうん)の呼吸が求められる。
東レは富松崇彰(現サポートスタッフ)と李博の両センターの速攻を生命線とする、他チームとは一線を画したプレースタイルを築いて2冠を達成。立役者となった藤井さんについて、小林敦監督(現ゼネラルマネジャー)は「あらゆる場面で勇気を持って、センターにトスを上げられる日本で唯一のセッター」と賛辞を贈っていた。
シーズン後、藤井さんは初の日本代表入りを果たし、センター攻撃の有効活用は他チームや代表でもこれまで以上に重視されるようになった。結果的に藤井さんを擁した日本代表は躍進を遂げ、東京五輪では29年ぶりの1次リーグ突破を果たした。
もちろん、藤井さんの最強の「武器」は努力のたまものだった。藤井さんとの圧巻のコンビネーションで知られる李は訃報を受け、自身のツイッターで「実はお互いBクイックが苦手だったよなー」と藤井さんの入団当時を振り返り、「毎日練習に付き合ってくれてありがとう」「藤井もめげずに付き合ってくれたからこそ自分史上最高のコンビネーションが出来たと思っている」と感謝を伝えた。
苦かった取材の思い出
藤井さんに関しては、少し苦い思い出がある。16~17年シーズンのリーグ優勝を決めたのは17年3月19日。東日本大震災から6年が過ぎたころだった。コートインタビューに立った藤井さんは「震災を経験し、バレーを途中であきらめかけた時期もあった」と話した。試合後の会見で、私は「震災とどう向き合ったのか、教えてください」と質問した。
返ってきたのは思わぬ答えだった。「大学2年のときで、実家が津波に流され、親も職を失い、在学できるかがあやしかった。支えてくださったたくさんの方に今回の優勝で恩返しできた」。宮城・古川工高、順大卒という経歴は把握していたが、震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市雄勝町出身と知らずにいた。出身高校が内陸の大崎市にあるため、地元もその周辺だろうと思い込み、つらい経験をしたかもしれないという想像ができていなかった。
「優勝した直後だというのに、あまり言いたくないことを語らせてしまったのではないか」。会見後の藤井さんを呼び止め、ぶしつけな質問をわびた。藤井さんは「全然大丈夫ですよ」と返してくれ、他の記者も加わる中、順大の配慮で学費免除などの措置が取られたことを語り、在学も、バレーも続けられたことへの感謝を口にした。
震災の記憶も真摯(しんし)に話してくれる姿勢は5月の代表合宿公開日も同様で、その後も被災地出身のアスリートとして、ことあるごとにメディアの取材に応じていた。私にとっては「取材相手の情報は事前にできるだけ収集しなければならない」と改めて思い知らされた出来事だった。
先に紹介した福沢さんのインスタグラムの文はこう締めくくられている。「藤井が最後まで愛し続けたバレーボールの世界で、彼の遺志や功績は生き続ける」。宮城が生んだ偉大なセッターの記憶は、多くの人の心に残り続けるだろう。(運動部 奥村信哉)