世界的電機メーカー、松下電器産業(現パナソニックホールディングス=HD)で社長を務め、「中興の祖」と評された。穏やかな表情の遺影の前には、一般の参加者も含め約千人の弔問客が並んだ。
昭和37年に大阪大経済学部を卒業後、松下に入社。平成12年6月に社長に就任した。ITバブル崩壊の影響で、直後の13年度に4千億円を超える最終赤字を計上。「破壊と創造」をスローガンに掲げ、創業者の松下幸之助氏がつくった事業部制の廃止や人員削減などの改革を断行し、巨額赤字からわずか1年で業績を急回復させた。
公私ともに親しかったダイキン工業の井上礼之会長は「自分だけの哲学を持っていた」と話す。一方で、普段の人柄について「非常にきちょうめんで、大きな影響力で経営のかじを取るタイプに見えない素朴な人だった」としのんだ。
プラズマテレビの開発・生産に巨額の投資を行い、家電の王様といわれるテレビ事業に注力した。プラズマテレビからは撤退し、経営悪化の要因となったが、これまでにない戦略とリーダーシップで日本有数の企業を率いた。
パナソニックHDの津賀一宏会長もそんな中村氏に薫陶を受けた一人。「経営理念以外は壊していいといって今の世の中に合う形で改革した。それまでの松下の経営トップとは違う人だった」と話し、昔の記憶に思いをはせた。
19年には経団連副会長に就任し、国のIT戦略や知的財産保護などの政策提言に尽力した。経団連会長時代に深い付き合いがあったキヤノンの御手洗冨士夫会長兼社長は「こみあげるものがあってダメだ」と涙をぬぐい、「あんな大胆な決断ができる人はなかなかいない。まさにパナソニック中興の祖だ」とたたえた。
また、かつてパナソニックHDが単独出資していたドラマ枠「ナショナル劇場」で水戸黄門を演じた俳優の里見浩太朗氏は「あまり自分から話されることはなかったが、心の優しい方だった」と話した。
会場にはメモリアルコーナーが設けられ、故人の業績やエピソードを紹介。参列者は足を止めて展示を見ながら、思い出を振り返っていた。
令和4年11月28日、肺炎により死去。享年83。(桑島浩任)