《番組が用意した過酷な企画に、出演者が体を張って臨む―。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」はドキュメンタリータッチでありながら、演出の要素も含む「ドキュメントバラエティー」(ドキュバラ)の先駆けだった。アポなしロケで人気を博した「進め!電波少年」(日本テレビ系)や、タレントの大泉洋さんを全国区に押し上げた「水曜どうでしょう」(北海道テレビ)も、この流れをくんでいるとされる》
ドキュメントバラエティーって僕が作った言葉なんですよ。一つの型になりましたよね。「元気が出るテレビ!!」は最初の5、6本、全部自分で台本書いてるんです。普通、放送作家が台本書くんです。特にスタジオ台本は。でも、俺は「多分、俺の言っていることは誰にも通じない」「俺がやろうとしていることは、制作の連中に伝わらない」って思ったんです。
実際、みんな最初、意味が分からなかったんですよ。例えば、「復興広告計画」って企画があったんですけど、「商店街盛り上げるぞ」って言ったら、みんな「何ですか?」って(笑)。誰もそんな企画、見たことないですからね。
今でいうシャッター通りですね。商店街を再生したいなんて、そんな強い思いはないんです。面白いからやる。なんか面白そうだな。それだけです。
最初にやったのは東京の荒川にある熊野前商店街。僕の同級生が床屋(とこや)さんやってたところなんですよ。全然寂れてはいないんだけども、「ここをもっと面白くできないかな」って思ったんですよね。
それから横浜商科大学を盛り上げようと。学長にもお会いしたけど、いい人でしたね。でも、ちょっと過剰演出で「マイナー」だとか「女性に人気がない」とか、そんなインタビューを取っちゃった。そんな紹介だったんで、オンエアの後にちょっと怒られましたけど、企画は最初から成功すると思っていました。自信がありましたね。
伊丹十三監督は「元気(が出るテレビ!!)」を見てると思うんです。このやり方って伊丹さんの「タンポポ」なんですよ。
《昭和60年11月に封切られた「タンポポ」は、山崎努さん演じるタンクローリーの運転手が、寂れたラーメン屋の女主人(おんなしゅじん)、タンポポ(宮本信子さん)に協力して店を立て直すコメディー映画。平成8年公開の「スーパーの女」も幼なじみの経営するスーパーを立て直していくストーリーだ》
伊丹さんは「元気」を見て、インスパイアされたなと思っていますね。
俺より前の人たちには多分、俺の企画は作れなかったと思うんです。また、俺もそれまでの成功例をまねすることができなかった。日本テレビの成功例では(音楽バラエティーの)「シャボン玉ホリデー」とかあります。でもあれって、まずディレクターに音楽の知識がないとダメなんです。譜面読めなくちゃいけない。あのころのディレクターって、まずアメリカの映像を見るんです。1960年代の日本のポップスって、全部アメリカの音楽を日本語に直し、アレンジしてるじゃないですか。だから、ものすごく知識がいる。音楽だけでなく、スタジオのセット、カット割りについても、そうです。模倣から入るのが基本だったと思いますね。
《だからなのか。伊藤ディレクターが思いつく企画は、突拍子もない、型破りなものばかりだった。芸能人が寝るホテルの一室で、バズーカ砲に見立てて爆音を鳴らす。「早朝バズーカ」をはじめとする「早朝シリーズ」もその一つだ》
出演者には「ドッキリだ」なんて言いませんよ。でもドッキリって、基本的には阿吽(あうん)の呼吸なんです(笑)。(聞き手 大竹直樹)