いずれにしても「明菜のボーカル力を引き出したい」という制作サイドの狙いは見事に当たった。しかも「中森明菜」の名前は台湾や香港、さらには大陸にまで広がった。特に95年5月8日に台湾出身の演歌歌手、テレサ・テンが亡くなると、大げさではなく明菜が「アジアの歌姫」と評されるようになった。
MCAビクター(現ユニバーサルミュージック)で「歌姫」の制作を担当した音楽プロデューサーの川原伸司は振り返る。
「日本を含めアジアの各国では、基本的に高音で歌う女性アーティストが売れていたんです。ところが明菜の場合はどちらかというと低い声、つまりアルトで歌う作品が圧倒的でした。本来そういった歌い方というのはブルースぐらいで、アイドルはもちろん、ポップス系でも評価されてこなかったんです。ところが明菜はそこが違っていたのです。つまり、明菜は音楽業界、あるいは歌謡界と言ってもいいかもしれませんが、その中で常識とされていた歌い方を根底から覆したと言ってもいいと思います。しかも、明菜の歌い方、スタイルというのがアジアでも支持されたのです」
ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)時代に「明菜の育ての親」として知られた寺林晁(2022年11月28日没)は、当時、日本フォノグラム(現ユニバーサルミュージック)で邦楽部長となっていたが、「歌姫」を耳にし「やはり明菜のボーカル力は天才だ」とつぶやいていた。
ところが音楽活動で注目されようとしていた矢先、明菜は思わぬトラブルに巻き込まれた。明菜が業界内で〝母〟と慕っていた制作会社の女性社長が、明菜を写真集の契約不履行で訴え、その揚げ句に暴露本「中森明菜 哀しい性(さが)」を出版(1994年9月1日)したのだった―。 =敬称略 (芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)
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■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」で合格し、82年5月1日、シングル「スローモーション」でデビュー。「少女A」「禁区」「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE―情熱―」などヒット曲多数。NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。