東日本大震災発生から11日で12年。サッカー日本代表の専属シェフ、西芳照さん(61)=福島県広野町=は震災と東京電力福島第1原発事故発生時、サッカーのナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」(同県楢葉町、広野町)のレストランで総料理長を務めていた。原発事故の対応拠点になったJヴィレッジで、作業員に食事を提供するため、放射線の恐怖と戦いながら、仲間とともに奮闘した経験を持つ。世界を駆けまわるシェフが故郷の福島を思う気持ちは人一倍強い。
Jヴィレッジが縁
高校卒業後、東京で京懐石の料理店で修業するなど経験を積み、平成9年、開設と同時にJヴィレッジに入りました。当時、2人の子供は小学生。都会を離れ田舎での子育てを考えていたとき「ホテルがオープンする」と聞き、応募したのがJヴィレッジでした。
自分にサッカー経験はありませんが、Jヴィレッジで日本代表が合宿していたことなどから、協会(日本サッカー協会)と関係ができました。2004年アテネ五輪最終予選のアラブ首長国連邦(UAE)で、選手の多くが原因不明の下痢をしました。これを機に、日本代表の海外遠征に帯同し衛生管理をしてほしいと協会から頼まれたのが、専属シェフの始まりです。
まるで戦場
震災発生の瞬間は休憩時間でした。仙台にいる妻と電話中、「うわっ地震だ。大きい」と聞こえた途端に切れて…。少し時間差があって福島でも激しい揺れを感じました。当時、娘2人は東京、自分は両親と南相馬市に住んでいました。数日かけ妻や両親、子供たちの安否を確認、その後は娘の部屋に身を寄せました。
Jヴィレッジの店は原発事故で閉店。運営会社から解雇を言われましたが、首都圏勤務ならば雇用が続くため、東京本社に通いながら休日に調理場の片付けに行きました。原発事故対応拠点のJヴィレッジは、作業員が床に寝ていたり、まるで戦場。食事は主に缶詰やレトルト食品。大変な状況を見て「復興に役立ちたい」と強く思いました。
そんなとき「作業員たちに温かい食事を提供してほしい」との話をもらいました。悩んだ末に会社を辞め平成23年9月、Jヴィレッジに店をオープン。500円のランチバイキングが喜ばれ、11月には広野町にも店を出しました。でも、経営不振で妻と「もう駄目だな」「今月で資金なくなるけど、ちょっとだけいいことしたよね」などと話し、閉店を覚悟した時期も。何とか続けてきましたが店の移転などいろいろありました。
今のニシズキッチン開店は一昨年3月12日。震災10年翌日の新たな船出でした。福島の食材で作った、日本代表に出すメニューを食べてもらいたいですね。
日本代表は〝卒業〟
多くの人に支えられてきた中でも〝サッカーファミリー〟の力は大きいです。混乱の中でも「西さんに頼みたい」と専属シェフを継続してくれました。本当にうれしかった。GK川島永嗣選手(ストラスブール)は、いつも「福島は大丈夫?」と気遣ってくれます。
日本代表の食事には米、みそ、うどん、漬物など福島産食材も積極的に使っています。風評被害を心配する協会の方は「『日本代表が食べている』とPRに使っていいから」と言ってくれました。
ワールドカップはドイツから昨年のカタールまで5大会帯同しました。フル代表はカタールを最後にします。岡田武史さん(元日本代表監督)は「もっとやれよ」と言ってくれますが、今後は五輪代表や女子代表をみてあげたい。
もちろん、サッカーを通じ福島県を理解してもらう努力は続けます。「福島に住むことがマイナス」という方もいますが、正しい情報を知ってほしい。カタール大会が好成績だったため、全国の学校や会社などから講演依頼が入っていて、いい機会。サッカーの話と合わせて「福島の今」を伝えようと思います。(聞き手 芹沢伸生)
にし・よしてる 昭和37年、福島県南相馬市出身。Jヴィレッジのレストラン在職中、サッカー日本代表の専属シェフに。現在はU-20(20歳以下)日本代表のウズベキスタン遠征に帯同中。同県で「NISHI’s KITCHEN(ニシズキッチン)」(いわき市)と「くっちぃーな」(広野町)を運営している。