あの日、黒い塊になって押し寄せた海は、日の光をたたえ、穏やかに凪いでいた。11日、東日本大震災から12年。失った人を悼み、命を守る術を伝え、新たな人生の一歩を…。きょうも、これからも、大切な想いを胸に。
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震災後、世界からあらゆる支援物資が寄せられた。宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)小5年だった菊地里帆子さん(23)の元に届いたのは、中国語が書かれた緑色の鉛筆。いつかその国の言葉でお礼を言えるように、支える側になれるように。そして、ウクライナからの避難民と交流するなかで、根づいていた想いに改めて気づいた。「今度は、私が」。4月から社会人として、その一歩を踏み出す。
「震災とは関係ないイベントに行く友人もいて、少し寂しかったけれど、献花台には閖上に住んでいた人ではない方もたくさんいた。忘れられてないんだとうれしくなった」
12年前。放課後の教室で揺れに襲われた。体育館に避難した直後、「津波が来た」と叫ぶ声が聞こえた。
屋上に駆け上がると、いくつもの黒い波が押し寄せていた。自宅のあった場所も通学路も、のまれていた。人が流されていくところも目の当たりにした。
3階の教室の床にテスト用紙を敷き詰め、ゴミ袋を布団代わりにした。同じ学校の2年だった弟の面倒を見ながら、一夜を過ごした。翌日、自衛隊に救助され、両親とも会えたが、閖上は大きな被害を受けた。
閖上中学校では生徒14人が犠牲になった。姉のように慕っていた生徒が亡くなっていたことも母親から聞かされた。
「よく遊んでもらっていた。お別れもできず、実感がわかなかった」
自宅は流され、避難生活を余儀なくされた。両親と祖母、弟と5人。仙台市内の一部屋で暮らした。
そのとき、支援物資の鉛筆を手にした。「感謝を伝えたい」。語学教育が盛んな中学に進んだ。入学から間もなく、友人と出身地の話をしていた。名取市出身だと話すと、震災の話になった。すると、ある生徒から、「いつまで震災の話をしているの」と言われた。
「そういう言葉をぶつけられたのは初めてで。ショックだった」
大学でも言語を学んだ。就職先を決める期限が迫っていた昨年9月、ロシアの侵略を受けるウクライナから避難し、留学してきたリリア・モルスカさん(22)と出会った。
モルスカさんは、キーウから南に約80キロにある街の出身。今も、両親らは残っている。母親とは毎日メッセージをやり取りし、週に1回は電話するが、停電などで途切れることがある。「母が私のメッセージを見ないと、どんな理由だろうと思ってしまう」という。
菊地さんはモルスカさんと過ごすうちに、「ウクライナについて、何も知らない」と気づいた。
「爆撃のことなど、日本に来るまでの経緯を聞き、モルスカさんも故郷を失っているんだと感じた」
モルスカさんとウクライナを紹介するパンフレットを作った。人口や言語など基本的な情報のほか、伝統料理や歴史も盛り込んだ。
そして、被災当時から心のどこかにあった想いが呼び覚まされた。震災と戦災。もちろんまったく違う。それでも、失われる命、避難生活、周囲との温度差…。重なりあうところもある。
「今度は私が支援する」
迷っていた就職先を決断した。被災地支援や難民支援に携わりたい。
「支援を通じて、子供たちの将来の選択肢を増やせたら…」(長橋和之)