あの日のままの校舎はどこかセピア色に見えた。福島県大熊町の町立熊町小学校。教室のホワイトボードには「3月11日」の文字があり、時計は2時46分を少し回って止まっている。ここに通っていた「スパリゾートハワイアンズ」(いわき市)のフラガール、齋藤遥さんは小学4年のころ、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故に遭い、町から避難した。いまだ帰ることができない故郷と、学び舎(や)。齋藤さんと訪ねた。
「変わらないまま残っていてくれて、うれしい思いも、悲しい思いもある」
福島第1原発の南西約3・5キロ。小学校は立ち入りが制限されている帰還困難区域内にある。許可を得て敷地内に入った。12年前、大きな揺れの後、齋藤さんたちは着の身着のまま、校庭へ逃げた。
あの日と同じ場所に立った。
「並んで避難して、みんなで集まって。寒かった」
敷地内を歩いて、ガラス窓越しに校内を眺める。きちんと棚に収まった靴、作りかけの粘土細工、付箋だらけの国語辞典…。思い出がこぼれ出す。
「学年ごとに玄関が違っていたんですよ」
「奥に森みたいなところがあって、はしごがかかっている木があって…」
× × ×
実家も帰還困難区域内にある。町民でも立ち入るには事前に申請しなければならない。通行許可証を見せて線量計と防護服を受け取り、バリケードの中に向かう。防護服を着るかどうか、判断はまかされている。
「家に帰るだけなのに、なぜこんなことが必要なのだろうと思う。まるで、人間の住む世界じゃないと言われているみたい」
大熊町を出て以来、県内外を転々とした。町に戻ってこられたのは5回だけだ。
家と学校は歩いて30分ほどだったのに、今はバリケードのせいで、回り道するしかない。バリケードは無人の空間と静寂をつくり、生い茂った雑草や木々は道路や家々を覆う。
「道路はこんなに狭かったかな。子供の視点と大人の視点だと全然違う」
両親と3人で暮らした家に着いた。生まれた年に、新築された家。表札は外れかかり、玄関のガラスは、鍵の周りが割れていた。室内に入る。倒れたテーブルと割れた花瓶が目につく。服や書類が散乱していた。
物色されたような痕跡もあったが、壁に飾られた写真や表彰状、冷蔵庫に貼られた手書きの時間割は当時のままだった。家族の大切な思い出が残っていたことに、少しほっとする。
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大熊での暮らしは自然とともにあった。森でカブトムシを捕ったり、田畑で藁(わら)に飛び込んだり。
「自然の中で育った。この町全部が遊び場だった」
いま、子供も大人もいなくなった町は時が止まったようだ。それでも、12年の月日は町の姿を変える。
毎週水曜日に行っていた駄菓子屋は取り壊され、更地になった。町民が保存や活用を求め、署名活動もしていた「大熊町図書館・民俗伝承館」も解体されることが決まった。熊町小はどうだろう。残ってほしいと思うけれど…。
大熊で暮らした時間よりも、離れて暮らした時間の方が長くなった。記憶が薄れたと感じることもある。もう、震災と事故前の大熊には戻らないかもしれないと思う。それでも、思い出と、故郷への想(おも)いはいつも胸にある。
「まだ、熊町小学校はあったよ。まだ、大熊町はあるよ。戻ってこられる場所があるよ。そうみんなに伝えられたらいいな、って」
感謝を伝えたい 大熊出身のソロダンサーとして
人見知りで笑うことが苦手だった。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から12年、福島県大熊町の豊かな自然の中で育った女の子はいま、スポットライトを浴び、華やかな衣装をまとって踊るフラガールになった。感情を全身で伝える。喜び、悲しみ、別れ、愛、そして感謝を。
あの頃の自分や家族を思うと、涙があふれるときがある。
「小学4年の女の子がつらい思いをしてきたんだな、大変だったろうなって。よく頑張ったねって言ってあげたい」
平成23年3月11日。震災と原発事故。小学4年、当時10歳だった齋藤遥さんの日々は変わった。
帰りの学級会の途中で、大きな揺れがあった。教室の水槽は壊れ、ランドセルや筆箱、上着すらも置いたまま、校庭に避難した。なかなか両親とは落ち合えず、午後6時、児童館の先生と帰路についた。
いつもの通学路。それなのに暗闇のなか、地割れした道路を3時間ほどさまよった。午後9時過ぎ、ようやく母親に会えた。余震の恐れがあり、両親と車の中で休んだ。
「バスが来るって。放射能があるから、大熊から離れて、遠いところに行かないと」
12日早朝、第1原発から10キロ圏内に避難指示が出た。齋藤さんは両親とともにバスに乗り込んで、町を出た。荷物は2、3着の着替えとゲーム機くらい。
「遠足のような感じで。明日帰れると思っていた」
その日から長い避難生活が始まった。県内の体育館から新潟県へ。その年の5月、大熊町から西に約90キロに位置する福島県会津若松市に移った。大熊町内の2つの小学校が一つになって、仮校舎で授業が再開された。ランドセルも何もかも大熊に置いてきたが、友人と2カ月ぶりに会えたことがうれしかった。
大熊町を再び訪れたのは5年後。15歳の春。中学3年になっていた。白い防護服を着て両親とともに車で自宅に行き、墓参りをした。無人の町。わずか2時間の滞在だった。
「故郷だけど故郷じゃない。大熊に帰りたいけど、変わってしまったところを見たくなかった」
いわき市の高校に進み、夢が見つかった。高校で出会った友人に誘われ、フラダンスチームへの入部を決めた。最初は「まったくやりたくなかった」というが、チアダンス経験もあり、次第にのめり込んだ。
高校2年の夏、映画「フラガール」で、白い衣装を着てソロダンスを踊る主人公を見た。口をついて出た。「お母さん、私フラガールになりたい」。将来の夢があれこれ変わっていたころだった。母は「やりな」と笑った。
気持ちは変わらなかった。高校卒業後、ハワイアンズの運営会社「常磐興産」に入社した。フラガールとしてデビューし、今年で4年目になる。新型コロナウイルス禍でショーが中止になったり、レッスンが中断されたり。苦しい時期もあった。
支えになったのは観客からの手紙や声掛け。大熊町出身の人もいた。
「自分が踊れば大熊のことを多くの人に知ってもらえるのかな」。思いは強くなる。大好きなのはタヒチアンダンス。フラダンスより、テンポが速く、激しい踊り。笑顔もはじける。
ひと握りだけがなれる「ソロダンサー」を目指している。高校2年の夏、夢見た白い衣装のソロダンサーに。そして、大熊町出身のソロダンサーとして。
「このままずっと大熊の人と関わっていきたい。この深い絆がずっと続いていければいいなと思う」(大渡美咲)