文化審議会が「陸前高田の漁撈(ぎょろう)用具」(岩手県陸前高田市)を1月下旬に重要有形民俗文化財に指定するよう永岡桂子文部科学相に答申した。また、「諏訪の下駄(げた)スケートコレクション」(長野県下諏訪町)は登録有形民俗文化財として答申された。いずれも現代の生活様式のベースとなる文化財で、過去と現在を比較しながらみるとより楽しめそうだ。
まだ復興の途上
「陸前高田の漁撈用具」(3028点)は明治以降に岩手県陸前高田市の沿岸地域で魚介類の捕獲に使われた用具で、漁撈技術と用具の変遷を伝える貴重な資料として高く評価された。
リアス式海岸が続く陸前高田市の沿岸地域では季節や海域に応じたさまざまな漁撈が営まれてきた。入り江や岩礁の多い沿岸ではアワビやウニ、海藻類などの磯物採取、沖合ではマグロやカツオ、サンマなど回遊魚の釣漁や網漁、穏やかな広田湾では海苔養殖など。
漁撈用具はそれぞれ漁の用具から運搬・製造加工用具、漁船用具、仕事着、信仰・儀礼用具など11ジャンルに分類されている。
アワビが漁獲規制されるようになったのは明治24年からで、きっかけは前の年に盛岡に出かけた漁師が持ち帰った川漁で使う箱眼鏡が普及したことによる資源の枯渇だった。
また、かつてのアワビ漁はヤスで突き刺すものだった。干しアワビにするのが主流のころは身に傷があっても構わなかったが、生で食べるようになると、身に傷はつけられない。鮮度の問題もあり、鉤で引っ掛ける形に変化していった。
今回の答申は、所蔵先の陸前高田市立博物館にとって念願だったといえる。「喜んでいてくれていると思う」。しみじみ語ったのは同館の熊谷賢副主幹兼主任学芸員。平成23年の東日本大震災で学芸員の先輩で師匠とも慕う市教委生涯学習課長補佐の佐藤正彦さん(当時54歳)が犠牲になった。
2人は平成20年に登録有形民俗文化財に指定された漁撈用具2045点をもとに重要有形民俗文化財の指定も目指していたからだ。津波で全壊した同館。回収した44万点のうち安定化処理は33万点まだ復興の途上にあるのも事実だ。
五輪金生んだ?
「諏訪の下駄(げた)スケートコレクション」は、前身である氷滑り用下駄や足に固定するひもまでを含む130点からなり、町立諏訪湖博物館・赤彦記念館にその一部が展示されている。下駄スケートがこの地でスケートを身近にし、地元企業に所属した清水宏保さんや高木菜那さんら数々の五輪金メダリストを生んだ「スケート王国」に導いたと言っても過言ではない。
かつて諏訪湖は厳冬期に厚い氷で覆われた。とくに、入り江で波も穏やかだった下諏訪町の高浜湾は氷質がよく、同町文化遺産活用係の太田博人さんによると「農閑期の子供たちが草履や下駄の裏に竹を付けて滑って遊んでいた」。
明治38年、現在のJR中央線が下諏訪駅を通り隣の岡谷駅まで延伸。主要産品の生糸を東京方面に鉄道輸送できるようになったと同時に、観光客が訪れ、スケート遊びを始めた。
革のスケート靴は当時国産のものでも2~3円の高級品だった。そこで町に住む学生に頼まれた飾り職人の河西準之助が39年1月、「カネヤマ式下駄スケート」を製作。上から強靱(きょうじん)な真田ひもで縛って足首に固定する手間はあるが、価格は約10分の1に。「スケートを競技者だけのものでなく、レジャーとしての裾野を広げた」と太田さんは功績を評価する。
「下駄スケート発祥の地」となった高浜湾。同湾を発着する諏訪湖一周競走会も開かれ、新聞報道などによって諏訪湖のスケートが全国に伝わった。スケート人気が盛り上がると、学校スポーツや町民らの余暇の娯楽としても定着。同湾はその後、ほとんど埋められたが、42年に諏訪大社下社秋宮の隣接地で冬季限定で開業した天然リンク「町営秋宮スケートリンク」では、今も下駄スケートの貸し出しが行われ、当時をしのぶことができる。(石田征広、原田成樹)