弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)の日本最大級の弥生墳丘墓、楯築(たてつき)遺跡(岡山県倉敷市)のなかに昭和47年に設置された給水塔について、倉敷市が令和7年度以降に撤去する方針を明らかにした。円丘に2カ所の長方形の突出部が付き、前方後円墳の原点との説もある貴重な遺跡だが、団地造成に伴って一部を消失。一部を除き、国史跡にも指定されているが、遺跡の整備という点では給水塔の存在が「目の上のたんこぶ」になっていた。市は今後、保存整備に向けた動きを本格化させる。
楯のように立つ巨石群
楯築遺跡を含む「王墓の丘史跡公園」は倉敷市内の住宅地にある。公園内の円丘に高さ2~3・5メートルで幅30~60センチの平べったい石数枚が楯のように立ち、同心円状に並ぶ。ストーンサークルのようで神秘的な雰囲気だ。
そんな風情を壊す給水塔は、高さ約15メートル、直径約9メートルの鉄筋コンクリート造り。建設当初は約900世帯に、現在では約150世帯に水を供給している。
給水塔を設置した当初は、遺跡の価値が十分に認知されていなかったらしい。昭和40年代に民間業者が団地造成を開始すると、北東と南西の突出部は消失。47年に給水塔が設置されたが、49年に給水塔の敷地および未開発地が業者から市に寄付された。
51年から平成元年まで発掘調査が岡山大などにより第7次まで行われ、遺跡の歴史的価値を確認。56年に給水塔を除き国史跡に指定された。
平成30年度には楯築遺跡は日本遺産の構成文化財にも認定され、倉敷市の伊東香織市長はなんとか給水塔を撤去できないかと、撤去を検討していたが、実際に水を利用している世帯が相当数あることから調整は難航していた。
最近になって、給水対象が150世帯までに減ったことで代替手段が可能と判断し、昨年6月の市議会で撤去の方針を表明。伊東市長は今年1月の「楯築ルネッサンスフォーラム」トークディスカッションで初めて撤去に向けた工程を明らかにした。
まず、遺跡の景観への影響が少ない場所を選定し、代替の増圧ポンプ場建設工事を令和6年度末までに完了し、その運用を開始したうえで、7年度以降に給水塔の撤去工事に着手するという。
伊東市長は「楯築は近年注目を集めている。遺構を傷つけないようにどうやって撤去するか、撤去後の発掘調査をどのように行うか、保存整備や活用をどのように進めるかなど、専門家や関係者らと相談していきたい」と話していた。
他に類をみない特徴
楯築遺跡は弥生時代後期、王墓山丘陵の北側に築造された双方中円形の墳丘墓。完全な円形ではないが直径約40メートル、高さ4~5メートルの円丘に北東と南西側に突出部を有し、推定全長は約80メートルとされる。
王墓が弥生中期に北部九州でみられる甕棺墓から、古墳時代の畿内の箸墓形前方後円墳へと変遷する過程で、出雲や吉備でみられる弥生墳丘墓の時代に位置づけられる。
オリジナリティーにあふれる楯築遺跡は考古学的にも極めて価値が高い遺跡の一つ。岡山大学の発掘調査によると、埋葬施設は木棺の外側を木の板で囲んだ木棺木槨(もっかく)構造で極めて珍しいという。木棺の底には総重量32キロを超える大量の水銀朱が分厚く敷き詰められ、その上に鉄剣や勾玉(まがたま)などの玉類が副葬されていた。
古代吉備で生み出されたとみられる「特殊器台」という土器は巨大な円柱状で朱に塗られ、精巧な文様、細工を施されており、のちの円筒形埴輪(はにわ)につながるとされる。
特異な帯状の文様と、人面のような彫り込みがある旋帯文石(せんたいもんせき)(弧帯文石)は国指定重要文化財で、大正時代まで円丘上にあった楯築神社のご神体でもある。
復元整備へ壮大な夢
数年前からは保存に向けて、歴史好き有志が、給水塔の撤去や団地造成で削られた突出部の復元を目指して活動を始めている。昨年7月には、活動団体の「楯築ルネッサンス」と産学民による提言団体「楯築ルネッサンス協議会」(代表・槙野博史岡山大学長)を正式に発足させた。
フォーラムを企画した楯築ルネッサンスの河合智哉代表は給水塔撤去の具体化について「道筋がはっきり見えたのはうれしい限り。未知の貴重な遺物、新しい重大発見の可能性があるので給水塔の地下の調査をしっかりとやってほしい」と歓迎した。
さらに「当時のままの姿を取り戻すのが志。倉敷市や岡山県を巻き込んで、保存整備への機運をさらに盛り上げていきたい」と話した。
団体では「古代吉備が日本の礎を築いたことを広く知らせたい」としていて、交通アクセスの整備や国立博物館誘致の構想を掲げ、周辺の造山古墳や作山古墳といった代表的な古墳・遺跡とともに、総合的、一体的な古代吉備歴史観光ゾーンを実現するという壮大なグランドデザインを提示している。(和田基宏)