《妻の正子さんとは今年で「結婚」50年になる》
2年間の同棲(どうせい)、長女の誕生を経て昭和48年に結婚しました。いわゆる子連れ結婚式で、ヨネクラジムの後援会長で私の以前のリングネーム「鈴木石松」の名付け親でもある蜂須賀学さんに仲人を務めてもらいました。東郷記念館での挙式費用は「世界チャンピオンになったら返す」という約束で、蜂須賀さんが立て替えてくれました。
正子との出会いは、私の人生でのさまざまな幸運な出会いの中でも、もちろん最大級の幸運でした。出会わなければ、世界王者には絶対なれなかった。
最初はジムの仲間が段取りをつけてくれた、池袋を拠点とする男女のグループ交際から始まりました。私が20歳のときで、正子はデパートのネクタイ売り場で働いていた。女優の梶芽衣子さんに雰囲気がそっくりで、梶さんの大ファンの私は一目ぼれしてしまったわけです。なかなか相手にしてくれなかったのですが、努力が実って2年後からいっしょに住み始めました。
正子に感謝していることの一つに、私のボクサー人生で命運を分けたライバル、門田新一選手との東洋ライト級タイトルマッチ(47年1月)前に言ってくれた一言があります。前にも述べましたが、あの試合は試合1週間前に急遽(きゅうきょ)、私が代役で挑戦者として出ることが決まった。しかし、正子は「やめて、やめて、むちゃしないで」と大反対しました。仕事はやめてもらっていたので生活は苦しく、35万円のファイトマネーは喉から手が出るほどほしかったに違いないのですが、私の体を案じてくれた。あのとき逆に「出て、出て」と背中を押されていたら、結果は違っていたと思います。反対されたからこそ、燃えに燃えて大一番に勝ち、世界王者への道も開けた。
《家庭は「小さな国家」というのが持論》
お父さんは政治家、お母さんは官僚、子供たちが国民といった感じでしょうか。みんな横並びで、お友達みたいというのは明らかにおかしい。2男1女の子供たちは独立しましたが、私の家庭も、そして貧しかったですが私が育った栃木の実家も、そうした役割分担はしっかり機能しており、家庭内の問題が起きたことはありません。
近年、「親ガチャ」とかいって、持って生まれた恵まれない境遇を嘆くのは当然とするような風潮がありますが、情けない話です。何で「今に見ていろ、俺だって」とファイティングポーズを取らないのでしょう。戦って負けるのは仕方のないこと。でも最初から諦めて戦わないのは「負け犬」です。日本の将来がかかっている若い人たちには頑張ってほしい。
《古里への思いは強い》
両親が亡くなってからは、里帰りの回数もめっきり減りましたが、何か壁にぶち当たったときとか行きますね。衆院選で落ちたときも行き、しばらく畑で横になって空を眺めていたら、不思議と元気になってきた。生まれ育った栃木県粟野町(現・鹿沼市)での15年間が、私の生きる知恵の大本になっているので、行けば何か感化されるものがあるのでしょう。近くに工業団地ができ、高速道路も通り、だいぶ風景は変わりましたが、少年時代に見た山や川はまだ残っており心が安らぎます。
東京での生活が栃木より何倍も長くなりましたが、永眠する場所は栃木と決めていて、何年か前に鹿沼市に自分の墓を建てました。「ガッツ家の墓」とし、脇の墓誌にはボクサーとしての全戦績が記され、チャンピオンベルトのレプリカも飾られた、こだわりの生前墓です。
もっとも、入るのは20年、いや30年は先だと思っています。これまでガムシャラに走り続けてきたので、今は少々、休憩し、またエネルギーがあふれてきたら、もうひと暴れします。「ガッツ伝説」はまだ閉じません。(聞き手 佐渡勝美)
=明日から演出家、テリー伊藤さん
【話の肖像画】 演出家・テリー伊藤<1> 激変するメディアとテレビの現在