《昭和54年1月、ボクサー引退を表明し、第二の人生では存在感のある個性的な俳優を目指すと宣言した》
俳優の「4回戦ボーイ」として一からのスタートでした。ただ、ボクサー時代にすでに5本の映画に出演したことがありました。前にも話しましたが、最初は渡瀬恒彦さんと共演した「極悪拳法」(49年)。3作目が思い出深い「神戸国際ギャング」(50年)でした。なぜ思い出深いかというと、任俠(にんきょう)映画が大好きだった私にとっての二大スター、高倉健さん、菅原文太さんと共演できたからです。共演というよりは、同じ映画に出させていただいたというのが私のレベルでしたが。
健さんとはよく、撮影所の食堂で昼食をご一緒させてもらい、有益な話を聞かせてもらいました。「ガッツさん、ボクシングをやめてからも俳優を続けたいのなら、本をたくさん読んでください。読書は俳優にとってとても大切です。例えば、こんなのが面白いですよ」といって、小説「宮本武蔵」の全7冊セットをプレゼントしてくれました。また「この世界では自分とは合わない嫌な人間と何人も出会います。そんな人間とは必要最小限しか付き合わず、避ければいいのですよ」ともアドバイスしてくれた。発するオーラに毎日、感激の撮影でした。
ざっくばらんな文太さんとは父親論や子育て論などを交わして意気投合しました。後年、私が父親の復権を訴えて同志と「雷おやじの会」を立ち上げたとき、お願いして文太さんに会長になっていただいたのも、このときの縁が始まりです。
《高倉健さんとは、14年後にも共演する機会があった》
平成元年の「ブラック・レイン」です。あのときは私も俳優としての実績を積み上げ、ハリウッドの超有名監督、リドリー・スコットさんに直接声をかけてもらって出演したので、正真正銘の役者として健さんと共演できた思いでした。
でも、あそこまでたどり着くのは、自分で言うのも何ですが、容易ではなかった。
まず、ボクサーを引退すると、待遇が格段に落ちました。現役世界王者時代は、撮影で移動の新幹線はグリーン車、ホテルはスイート、楽屋も個室をあてがってもらえました。引退後は、新幹線は普通車、ホテルは予算内で自分で予約、着替えは屋外の適当なところで、となった。でも無論、文句など言えません。
経験を積むために、それこそ風でもゴミの役でもやるつもりで、オファーがあれば何でも引き受けました。私はボクシングでは、4年で基礎を身につけて世界王座に初挑戦し、さらに4年かけて技を磨いて世界王者になった。だから、俳優としてもまず4~5年は土台作りだと思うようにしていました。
テレビドラマや映画だけでは勉強が足りないと感じ、昭和54年の引退直後から、京唄子さんと鳳啓助さんが主宰する「唄啓劇団」の地方公演のメンバーに加えていただき、舞台の場数を踏むことも心掛けました。
《引退後は一時、飲食店ビジネスにも力を入れた》
世はバブル景気に向かってまっしぐら、絶好調の日本経済に敵なし、といった時代でしたからね。金があれば何かやってみるのが当然といった風潮がありました。それと、俳優で食べていける保証はないので、生活基盤を固めるサイドビジネスとして、いろいろやってみました。
バーやスナック、寿司(すし)店を都内数カ所に出し、ボクサー時代のキャンプ地でなじみがある伊豆にもスナックを開きました。郷里の栃木にもラーメン店を出した。しかし、ことごとく失敗。すべて1~2年でつぶれました。営業は人任せにしておいてもうけようなんて、虫が良すぎました。2億円超の借金ができましたが、まだ若かったし、高い授業料ぐらいの感覚でした。(聞き手 佐渡勝美)