臨済宗大徳寺派大本山の大徳寺(京都市北区)の方丈(ほうじょう、国宝)の屋根裏から見つかった江戸時代前期のノミ。「建てた大工の忘れ物」とみられているが、本当にそうなのだろうか。さらに調べると知恩院(東山区)の7不思議の一つ、「御影堂の忘れ傘」と共通点が多いことがわかった。忘れ傘は何らかのまじないともいわれており、そうなると、ノミにも何か奥深い背景があるのかも。京都検定1級合格記者の好奇心がくすぐられ、謎多き忘れ物の核心に迫ってみた。
意図的の可能性
江戸時代の寛永12(1635)年、徳川家康以来の幕府御用商人、後藤家の寄進で造営された方丈は時間の経過による劣化から傾きが生じ、府教育委員会が令和2年から実施する修理の中でノミが見つかった。
鉄製の刃先の断面は、今では見られない三角形をした両刃形式で、木製の柄を入れた長さは23・3センチ、刃幅は1・72センチ。全体的に生じた曲がり具合から相当に使い込まれたものだとみられる。
見つかった場所は方丈の南東角付近で、軒に近い部分の屋根裏。軒を支える垂木(たるき、幅8センチ、高さ10センチ)と裏板(厚さ0・6センチ)の間に挟み込まれていた。裏板にはノミを置いたことによる凹凸も確認できたという。
今回、府教委は「大工が忘れた可能性がある」とした。だが、修理を担当する竹下弘展主査は裏板の凹凸の状況から「相当に大きな音が生じ、手応えもあったはずで、これで気づかないのはおかしい」とみており、意図的に置いた可能性もにじませた。
知恩院の傘と酷似
今回のノミが出た場所をみて記者の頭をよぎったのが、知恩院・御影堂の軒下に置かれた忘れ傘だった。伝説的な彫工、左甚五郎が魔よけに置いたと伝わるが確かな証拠はなく、寺の7不思議の一つに挙げられている。
その忘れ傘が置かれていた場所が、大徳寺のノミと同じ、建物の南東角の軒と壁の境部分だ。知恩院の御影堂の完成は、大徳寺の方丈が創建された4年後の寛永16(1639)年と年代が近い。
しかも御影堂を建てた徳川家光は幕府の3代将軍だが、大徳寺の方丈を寄進した後藤家は幕府の筆頭呉服商。このため知恩院の御影堂建立にも後藤家が関与した可能性が十分に考えられる。
こう考えて竹下主査に疑問をぶつけると、「南東は辰巳の方角で、水神の龍がまつられることがある」と興味深い見解を切り出した。南東角の屋根に龍の形をした鬼瓦を置く寺院もあり、その中には清水寺の三重塔とともに知恩院の御影堂も含まれている。そうしたことから、竹下主査は「ノミと傘と物は違うが、南東角に置くことで火伏せ(防火)の願掛けの可能性もある」と明かした。
やはりまじない?
「ノミ=火伏せ」説について、ノミの歴史に詳しい建築技術史研究所の渡辺晶所長も「刃物は魔よけになる。ノミは長く建物が残るように願ったまじないでは」と支持する。
そもそも論として、渡辺所長は「ノミは使い古されたもののようだが、それでも当時貴重だった鉄の工具を忘れるとは考えにくい」と付け加えた。
ノミが火伏せのまじないとなると、知恩院の傘も同じ意味合いがあるのとの考えも成り立つ。こう考えていると、民俗信仰に詳しい国立歴史民俗博物館の常光徹名誉教授が、「辰巳井戸に戌亥(いぬい、北西)の土蔵」という、群馬県に古くから伝わる言い伝えを紹介してくれた。
戌亥は辰巳に次いで縁起の良い方角とされ、土蔵は冬に吹く北西風による火災からの延焼を防ぐ手段とされていることにちなんだものだという。
そういえば、京都市伏見区の宝塔寺本堂の天井裏で見つかったノミが置かれていた方角は北西角だった。偶然といえば偶然かもしれないが、大徳寺、知恩院、宝塔寺ではそれぞれの方角、いわれ、遺物の符合が明らかになった。「火伏せのまじないで間違いないのでは」。記者の推論は確信に変わった。(園田和洋)