塩澤佑太は東京の強豪、帝京高校で1年の春から4番を打ち、秋にはエースナンバーの「1」を背負った。腰椎分離症に苦しんで主戦場を外野に移し、4番の座も1学年下の中村晃(現ソフトバンク)に譲ったが、3年夏の甲子園大会では、15打数9安打2本塁打と大暴れした。
智弁和歌山に12―13で逆転負けを喫した準々決勝でも、塩澤は4安打1本塁打と気を吐いた。大会後の米国遠征では日本選抜チームのメンバーに選ばれ、「JAPAN」のユニホームに袖を通した。
遠征メンバーには甲子園の決勝で死闘を演じた斎藤佑樹(早実)や田中将大(駒大苫小牧)の名もあった。塩澤が目を見張ったのは、後に楽天やヤンキースで活躍する田中の圧倒的な存在感だった。
「野球選手としてのエンジン、オーラというか、スケールが違い過ぎました」
キャッチボールで田中が少しふざけてスライダーを投げると、相手はグラブで追うことができず、右ひざを直撃した。相手も高校日本代表の選手だというのに。
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東海岸への遠征では、ヤンキースの松井秀喜が迎えてくれた。西海岸では各自がホームステイ先に分かれて宿泊した。ロサンゼルスの空港では塩澤と早実の船橋悠を受け入れる家族が「Welcome」の文字に帝京と早実のユニホームのイラストを添えた大看板を手に待ち構えていた。ひと際小さな、はにかむ9歳の少年。彼が、ラーズ・ヌートバーだった。
「人懐っこくていたずら好きで、映画ホーム・アローンのマコーレー・カルキンみたいでした。試合ではチームのバットボーイも務め、キャッチボールにも加わったけど、小さくて細くて、将来の大リーガーなんて、誰も想像できなかった」。遠征を終えて帰国する際、ラーズは空港で「帰らないで」と泣きじゃくったのだという。
あの小さかったラーズが今や190センチ、95キロの大リーガー。2018年のドラフトでカージナルスに入団し、昨季は14本塁打を放った。母の久美子は日本人で、3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日本代表選手としてプレーする。
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度重なる故障に泣いた塩澤はプロ入りをあきらめ、筑波大学に進学した。「けがのせいにして、逃げたのかもしれない」。米国遠征で田中の桁違いな才能を目の当たりにしたことも影響した。今では、そう思える。筑波大野球部でも活躍したが、卒業と同時に野球から離れた。
以降、野球を見ることはほとんどなくなった。頑張る選手を見るのが、辛(つら)くなったからだ。社会人野球の名門、東京ガスに就職後も野球に背を向けてきたが、広報部に配属されて一昨年の都市対抗優勝や昨年準優勝のドラマに触れた。やっぱり野球はいいな、素敵(すてき)だなと、ようやく再び思えるようになっていた。
久美子からのメールで、兄のナイジェルに続いてラーズもドラフトで指名されたことは知っていた。それがここまで大成し、大谷翔平、ダルビッシュ有ら大リーグ組や、三冠王の村上宗隆、完全男の佐々木朗希らのチームメートとして、日本のために戦う。
すでに同期の斎藤はプロを引退し、田中も今回のWBCでは選に漏れている。
「あのころは、僕らがJAPANのユニホームを着ていたのにね」
今は、ラーズに会いたい。WBCを戦う、彼のプレーを直(じか)に見たい。運命的なものも感じ、とにかく、野球が愛(いと)おしくてたまらない。