24日、74歳で死去したことが分かったプロ野球往年の強打者、門田博光さん。歴代3位の567本塁打を積み重ねた23年にわたるプロ野球人生は、数々の記録とともに背番号を頻繁に変えたことでも知られる。
1970年、ドラフト2位で南海(現ソフトバンク)に入団した際に背負ったのは「27」。当時、巨人のV9に貢献した森昌彦捕手や大洋(現DeNA)のエース平松政次投手がつけており、外野手の印象はない番号だったが、この番号を79年までの10年間つける。
80年からは「44」。背番号を変えたのは前年の春季キャンプでアキレス腱を断裂したことに起因する。44本塁打を目標に「本塁打を打てば走らずに済み、足に負担がかからない」とホームランを打つことに徹する決意を込めた番号だ。このシーズン、41本塁打を放ち、初めて40本の大台に乗せた。
「44」は米大リーグで50~70年代に活躍し、755本塁打を記録したアーロンがつけたことや阪神のバース、阪急(現オリックス)のブーマーらも背負ったことで外国人選手の印象が強いが、82年まで3シーズンつけた門田さんはこの番号で81年、44発で初めてのホームランキングに輝いた。
これ以降、門田さんの背番号の旅が始まる。83年からは「60」。プロ野球選手は好成績を収めると1桁になるなど背番号は小さくなることが多いが、門田さんの場合はどんどん大きくなった。目標だったであろう60本塁打は達成できなかったが、同年は40本を放ち、2度目の本塁打王のタイトルを獲得。そして、40歳で迎えた88年には44本塁打、125打点で2冠達成。「不惑の大砲」として社会現象にもなった。「60」は現在、西武の中村剛也内野手がつけ、長距離砲の系譜を継いでいる。
オリックスで過ごした89、90年は監督、コーチがつけるような「78」。ダイエー(現ソフトバンク)時代の91、92年は「53」。この頃は占いなどで背番号を決めていたといわれる。
5つの背番号をつけた門田さん。どの番号が印象深いかはファンがそれぞれ決めることだが、最もインパクトがあったのは「不惑」でつけた「60」だろうか。