あのときの手の感触が忘れられない。神戸市兵庫区の大石博子さん(73)は、阪神大震災で2人の娘と生き埋めになった。3時間後に救助されたが、次女の朝美(あさみ)さん=当時(16)=は亡くなった。つないでいたはずが、いつの間にか離れた手。「助けてやれなかった」。自責の念にさいなまれた。それでも前を向き、今では他の災害の被災地でボランティアにも取り組むようになった。あの日から28年。博子さんは朝美さんのカーディガンを持って、神戸市の追悼行事の会場を訪れた。
「朝美ちゃんがいる特別な場所。毎年この日は、ここで会える気がする」
博子さんは16日午後、追悼行事を翌日に控えた神戸市中央区の東遊園地を訪れ、「むすぶ」の文字に並べられた紙灯籠に火をともした。
あの日、兵庫区の文化住宅の2階で、2人の娘と川の字になって寝ていた博子さん。大きな揺れで家が崩れ、気づくと暗闇の中にいた。娘たちの名前を呼び、手を握った。しかし、朝美さんからの返事はなく、次第に自身の意識も遠のいていった。
近所の人たちに救出されたときには3時間あまりが経過していた。その後、朝美さんも助け出されたが、すでに息はなかった。
友達が多く、思いやりのある子だった。中学ではバレーボール部の厳しい練習をやり通した。博子さんが作るカレーと関東煮が大好きで、口げんかをすることもあったが仲のいい親子だった。「何で朝美が死なないといけないのか」。現実を受け入れられず、助けられなかった自分を責めた。
約1カ月後、がれきとなった自宅を整理していると、朝美さんに買ってあげた紺色のカーディガンが見つかった。当時高校1年だった朝美さんは、すでに博子さんよりも背が高かった。袖を通してみるとぶかぶかだった。持ち帰り、寒い日はパジャマの上に着て眠るようになった。
2年ほどたったころからは、別の遺族の誘いで、NPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯(あか)り(HANDS)」の活動に加わり、その後広島県の豪雨災害の被災地などでボランティア活動に携わるように。同じような境遇の人と話すことで、心が落ち着くような感覚になれた。
突然の別れから、気づけば30年近くが経過していた。自身も周囲も少しずつ前に進んできたが、朝美さんへの思いは変わらない。
「生きていれば44歳。結婚していて、子供もいるんじゃないかな」。みることがかなわなかった朝美さんの未来を想像してしまう。今でも毎日のように、朝美さんの墓まで約1キロの道のりを自転車をつえ代わりにして歩き、「朝美ちゃん、来たよ」と語りかける。
月命日には東遊園地の清掃も続けている。毎年1月17日は前日から訪れ、他の遺族らとともに、地震が発生した午前5時46分を迎えている。
追悼の日に向かって神戸の夜は更けていく。寒さが深まってくると、少しほつれが出てきたカーディガンを羽織り、娘のぬくもりに思いをはせる。(弓場珠希)