《昭和47年夏、〝身代わりオーディション〟合格から一気にグランドチャンピオンに輝き、ドラマの〝準主役〟に抜擢(ばってき)される》
「ちびっ子歌謡大会」はオーディションといっても、「スター誕生!」のような大きなものでなく、フジテレビの夏休み限定企画でした。7月末から始まって、確か4週間くらい。週ごとのチャンピオンが決まり、グランドチャンピオン大会が8月末、今はもうなくなりましたが「としまえん」(東京都練馬区の遊園地、令和2年閉園)のプールサイドでありました。
作曲家の猪俣公章先生が審査委員長、畠山みどりさん(演歌歌手)の旦那さん、千秋与四夫さん(当時、フジテレビディレクター)らが審査員でおられました。そこで同じ「船頭小唄」を歌い、グランドチャンピオンになってしまったんですね。確か、8月28日でした。
そこからですよ。9月2日だったかな、フジテレビから連絡が入って、局に来てくれって。河田町(東京都新宿区)にあった前のフジテレビに母と一緒に向かいました。局に着くと、千秋さんと、同じくディレクターの岡田太郎さん、後に吉永小百合さんの旦那さんになる方ですが、その2人がいらした。
そこで「10月からの新番組で『光る海』という石坂洋次郎さん原作のドラマがあるので、これにあなたはレギュラー出演してください」といきなり…。「えっ、私、歌手になりたいんです」と言ったら、「ま、いろんな意味で2クール、半年間ある。これをやっていると絶対に勉強になるからやってごらんなさい」とね。(小さな声のトーンで)「は~い」と言いながらも、心の中では「私、歌手になりたいのにな」でしたから、そんな大感動はなかったんです。
9月11日にまたテレビ局に向かいました。芦田伸介さん、久我美子さん、河内桃子さん、沖雅也さん、中野良子さん、島田陽子さん…すごいメンバーにお会いした。皆さん、テレビで見る方たちなんですね。小林麻美ちゃんも島田さんの妹役、私は沖雅也さんの妹役の珠子。原作で珠子は姉なんですが、脚本は妹に書き換えられたのかな。それぞれが家族になっていたドラマでした。
横浜から渋谷に出て、乗り換えて四谷三丁目駅まで行く。そこからフジテレビまで沖雅也さんが「珠子、一緒に行こう」といつも車に乗せてもらっていました。週3、4日通うんです。
半年やりました。本当に申し訳なく、下積みもなく、今日に至っているんですね。小学校の頃、「赤ずきんちゃん」とかの劇はやりましたが、芝居は初めて。児童劇団で外郎売(ういろううり)(歌舞伎十八番の一つ)をやったくらい、ハハハ…。でも大人の中に中学生だった私が、ひとりポコリンと入って、皆さんにかわいがっていただきました。
《「光る海」は47年10月2日から翌48年3月26日までフジテレビ系で放送された》
ドラマに出るようになっても牛乳配達のアルバイトは続けていたんです。すごく人気がある番組で視聴率も高かったみたいで、集金に行くと「あなた、最近テレビに出ていない?」って。一応、子供のくせに格好でもつけたのかな。そのときは「テレビなんか、出ていません」っていいながらも、ちょっとうれしかったですね。
ドラマ効果でしょうか、何カ所からお話をいただき、事務所は「ホリプロ」に決まり、レコード会社も島倉千代子さんがいらっしゃる「日本コロムビア」に決まった。そして私の初代マネジャーは島倉さんの元マネジャー…。思えばオーディションに行けなくなった子がいて、会場を見たいからという私がいて、名前を書き換えて歌ったら受かってしまった。不思議なご縁がいろいろ絡まりながら、いまの私がいるんですね。
《ドラマで先行デビューしたが、48年3月25日、ついに念願の歌手デビューを迎えることになる》(聞き手 清水満)