新聞記者になった15年前、振り出しの地方支局で最も憂鬱だったのは、事件・事故被害者の顔写真を入手するために現場周辺の住宅を一軒一軒回る作業だった。被害者との関係が近い人ほど、悲しみに暮れるなかで次々と訪問する記者の無神経さに怒りをあらわにした。「事件・事故の悲惨さを報じるために写真が必要だ」という正義感よりも、内心は「果たして誰かの役に立つのか」という苦悩の方が大きかったように思う。
そんな新人時代の苦い思い出が脳裏をよぎったのは、ソウルの繁華街・梨泰院で158人が死亡した雑踏事故で今月14日、被害者遺族らが現場近くの広場に設置した焼香所を訪れたときのことだった。氷点下10度近い寒空の下、簡易テント内には70人以上の遺影が飾られた。
多くの被害者の顔写真がこの日初公開されたのは、政治の動きに強く影響された結果でもあった。
革新系最大野党「共に民主党」は今回の事故で、「真摯(しんし)な哀悼」のため被害者の氏名、写真を公開するよう尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権に要求。先の大統領選で「フェイク(偽)ニュース」が多いと主張、報道統制に向け法改正を進めた同党が一転して情報公開の重要性を強調したのは、被害者を前面に立たせることが、尹政権の責任追及に有利だと判断したためだった。同党に近い市民団体が、尹政権の事故対応に不信感を募らせる遺族と連携し、政府が関与しない自主的な焼香所の設置に至った。
こうした経過も影響し、焼香所の周辺では陣営同士が衝突するデモ集会さながらの光景が広がった。約200の左派系市民団体が遺族支援に回る中、マイクを握った関係者は「子供たちは尹政権に殺された」と強調。一方、与党支持者らは汚職疑惑が浮上する野党代表の逮捕を求める横断幕を掲げ対抗した。
焼香所開設から数時間。騒ぎが一段落した後で、ようやく遺影に手を合わせた。犠牲者の9割以上を占める10~30代の若者たちがずらりと並び、写真の下には一人一人の氏名と、同じ没年月日「2022・10・29」が記されていた。政治的な思惑が渦巻き、おのおのの主張が甲高く響く現場で、彼らの無言の笑顔は誰よりも雄弁に、事故の悲惨さを物語っていた。
【プロフィル】時吉達也
韓国留学後、2007年入社。裁判・検察取材などを担当し、昨春から現職。埼玉出身で、過去に支局勤務した群馬や大阪を旅行するのが趣味。