まるで日本の箍(たが)が外れてしまったかのようだ。
参院選の最中、安倍晋三元首相が凶弾に倒れた。この後の日本政治、社会を眺めていると、そう思わずにはいられない。安倍氏を暗殺した容疑者をモデルにした映画が、日本赤軍の元メンバーの監督によってつくられた。朝日新聞の記事で、監督は次のように述べている。
「個人的な決起を、いつからテロと呼ぶようになったのか。元テロリストと呼ばれている僕は疑問です」
個人的決起であれば暗殺が許されるのか。それこそ、まさにテロではないか。イスラエルのテルアビブ空港で約100人を殺傷した日本赤軍の自動小銃乱射事件も、「個人的決起」だったから許されると、いまだに主張するのか。そうであるならば常軌を逸している。
テロリストは独善的な正義に基づき、法を犯し、平穏な社会を震撼(しんかん)させる。殺戮(さつりく)されるのは無辜の人々だ。
こうした映画を製作する自由は、現代の日本では認められている。中国や北朝鮮とは違い、「表現の自由」が認められた自由民主主義社会だからだ。
だが、こうした映画を、「事件からわずか2カ月半余り」「緊急上映」などと報じた朝日新聞の姿勢は非常識に感じる。