呪われた五輪-。こんな言葉で揶揄(やゆ)された東京五輪・パラリンピックの開催から1年あまりが過ぎた。招致決定から1年延期による開催を経て今日まで、このフレーズが何度人々の口から発せられたことだろう。アスリートたちの躍動が与えてくれた大会の感動はいま、次々と明らかになる汚職や談合疑惑といった負のイメージで上書きされようとしている。「呪い」はいつまで続くのか。(外崎晃彦)
7月23日、五輪開会式から1周年を記念するイベントを取材した。5月に赴任したので、新しい国立競技場に入るのはこれが初めてだった。新型コロナウイルス禍でイベント開催が抑えられていたためか、場内は真新しい状態を保っているように見えた。
このイベントには約1万5千人の観客が来場した。参加した選手や観客らは、無観客で行われた1年前の大会を振り返りつつ、客席に人がいることへの感激を口にした。小池百合子知事も主催者あいさつで「徹底した感染防止対策を講じ、安心安全な大会として成功を収めた」と胸を張った。
経費肥大、迷走…
都は今年、同競技場などで1周年記念イベントを計3回催したが、小池氏が都度発するこの「成功」という言葉に私はいつも違和感を覚えた。
確かに小池氏は手放しで「成功」としているわけではなく、あくまでコロナ禍をはねのけ無事に終えられたことに限って、評価しているようだ。ただ、その一面だけを切り取って「成功」とすることに危うさを感じてしまう。
もともと「コンパクト五輪」として会場の配置も開催経費も肥大化が抑えられるはずだった。だが、招致段階で7340億円としていた経費は、いつの間にか膨れあがり、今月21日に会計検査院が公表した検査報告書によれば1兆6989億円にのぼった。
「呪われた五輪」といわれた原因も枚挙にいとまがない。一度決まった国立競技場の建設案は白紙化し、エンブレムも盗作疑惑で差し替えらえれた。女性蔑視、障害者虐待、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を巡る言動などで関係者の辞任・解任が相次いだ。
これほどの失敗や迷走、不祥事を含む五輪を、コロナ対策や海外からの称賛を理由に、「成功」としてひとくくりにしてしまっていいものか。
直視こそレガシーに
そしてここに来て汚職や談合疑惑といった不祥事が相次ぎ表沙汰になっている。五輪テスト大会を巡る談合疑惑では、都庁内にある組織委(現清算法人)に、7月に続いて再び東京地検特捜部の家宅捜索が入るのではないかと、記者らがカメラを手に身構える日が続いた。
11月末の記者会見で談合について所感を問われた小池氏は「よく使われる言葉かもしれませんが、もう誠に遺憾ですよね」などと話し、あきれたような表情をしてみせた。この言葉に当事者意識は感じられない。
東京五輪の運営に関する醜態が露呈する中、札幌市への冬季五輪招致の動きは尻すぼみになりつつある。新たな五輪招致は、都内で令和7(2025)年に開かれる世界陸上がクリーンに行われるのを見届けてからでも遅くはないだろう。
昭和39(1964)年の東京五輪では、都内に高速道路が整備され、ごみ収集への住民意識が高まるなど、日本が先進国へと脱皮する契機になったとされる。今回の五輪も東京にどんな飛躍をもたらすのだろうと、招致決定時から楽しみだった。だが、今大会では結果的に、失ったものの方が大きいように思えてならない。
小池氏らが喧伝する五輪のレガシー(遺産)とは一体何なのか。為政者たちが失敗を直視し脱皮することこそが、本当の意味でのレガシーになるのではないだろうか。