長嶋監督が歓喜の中で宙を舞ったちょうどそのとき、阪神は甲子園球場で中日と戦っていた。三回に飛び出した掛布の27号3ランで4―1とリード。六回2死一、二塁。一塁ベースコーチに立っている吉田監督へ、ベンチから一枝コーチが両腕で「×」を作って知らせた。
8月末には8・5ゲーム差もあった巨人を最終戦まで追い詰め、巨人が負ければ〝自力優勝〟の目もあった。だが、戦いは終わった。
「選手の頑張りを優勝に結びつけられず残念です。8月の9連敗が痛かったですな。これを反省し悔しさを生かせば、きっと来年につながるはずです。そう、もうちょっとです」
吉田監督は最後の言葉に思いを込めた。
同じころ、西宮球場ではようやく「日本シリーズ」の相手が決まった阪急の上田監督が記者たちに囲まれていた。
「阪神には悪いが、どうしても巨人に出てきてほしかった」
阪急にとって「巨人」は〝宿命の相手〟だ。昭和42年の初優勝から5度、巨人に挑戦し、ことごとくはね返された。『巨人に勝てぬ阪急』―の汚名は「阪急は強いが人気がない」といわれる遠因になった。
50年、上田阪急は古葉広島を破り悲願の「日本一」となった。だが、周囲の評価は「巨人に勝たないと本当の日本一とはいえない」という厳しいもの。選手たちは悔しさの中で美酒をあおった。
「ほんまに悔しかった。せやから、ことしのわしらの目標はリーグ優勝やなく、巨人に勝って日本一になること。みんな巨人が出てくるのを待ってたんや」と福本は選手たちの声を代弁した。
上田監督は46、47年と2度、西本監督下でヘッドコーチとして戦っている。
「あの歯がゆさがワシのエネルギー源。けど、もう昔の巨人とは違う。ウチは奇策なし。がっぷり四つの横綱相撲でいくで」
実は上田監督と長嶋監督にはもう一つの〝宿命〟があった。昭和32年、上田と村山がバッテリーを組んだ関大が『全日本大学選手権』で、スター長嶋率いる立教と2回戦で激突。勝った立教が「日本一」になっていたのだ。
「あの頃のような気負いはない。けど、巨人相手やからな。プレッシャーはある。もちろんはね返す自信もある。きっとおもしろい戦いになるで」
おもしろい戦い? 上田監督の〝予言〟のように聞こえた。(敬称略)