大正3(1914)年開業の東京駅は各方面への旅客ターミナル機能を一元的に担い、名実ともに「首都・東京の顔」となる。だが、「赤レンガ駅舎」として知られる丸の内駅舎は先の大戦で炎上、戦後に不完全な形状で復旧された。長らく停滞していた復原(ふくげん)計画が動き出し、駅舎が往時の姿を取り戻したのは、ちょうど10年前の平成24(2012)年10月だった。文化的価値に持続性を融合させた駅舎。その再生に向けた道のりとは-。
皇居の東に位置する東京駅。南北の屋根に直径約20メートルのドームがそびえたち、外壁に赤レンガが施された3階建て長さ335メートルもの巨大な威容に圧倒される。
駅舎内側からドームを見上げると、天井や壁はしっくい塗りで温かみのある黄卵(おうらん)色の濃淡によるコントラストを演出。周囲はぐるりとワシの彫刻8羽が並び、壁には全てでないものの各方位に該当する干支(えと)のレリーフが配置され、目を楽しませてくれる。
現在の駅舎は竣工(しゅんこう)時の姿に復原されたものだ。当初の駅舎は昭和20年の東京大空襲でドームや屋根が焼け落ちた。戦後すぐに復旧されたが、3階部分は撤去され2階建てに、ドームは八角形で施工された。早期復旧を優先した応急的な措置とされるが、完全復旧に向けた議論の本格化は半世紀以上も待つことになる。
JR東日本によると、その間、旧国鉄時代から駅舎の建て替えや高層化も含めた議論がなされ、民営化後も「さまざまな検討や調整を進めてきた」という。
石原慎太郎都知事とJR東の松田昌士(まさたけ)社長(いずれも当時)が「首都・東京の『顔』にふさわしい景観整備」などを目指し、駅舎を当初の姿に戻すことで基本合意したのは平成11年。国の法整備による後押しもあった中で検討が重ねられ、14年に計画が発表された。総事業費500億円の一大プロジェクトとなった。
19年に始まった工事の目的は駅舎の復原に加え、建物の耐震化だ。作業は困難を極め、さらに着工前の15年に丸の内駅舎が国の重要文化財に指定されたため、基本的に当初の材料を用いて修復し、既存建物を傷つけないことが求められた。
現場の工事長として携わった鹿島の小吹教雄さん(56)らによると、特にドームの再建は骨が折れた。現場の真下は多くの利用者が行き交う通路で、作業は準備や片付けを含めて影響のない営業時間外の午前1~4時に限られた。
駅舎の屋根工事では、修理のために取り外した天然スレート材を、産地の宮城県の修理業者に送った際、東日本大震災の津波被害に遭った。流出分のうち約4万5000枚を業者らが探索、回収。不足分は近隣産のものを調達したという。
また、地下にはマツのくい約1万1000本が埋め込まれ駅舎を支えていた。これこそが大正12年の関東大震災にも、びくともしなかった理由だ。現在の耐震基準には満たないため全てのマツを撤去し、揺れを吸収する特殊ゴムを使った免震装置などを多数設置した。
「当時の職人の技術に接し、そのレベルの高さに感動した」。小吹さんは畏敬の念を示した上で「私たちも(駅舎が)永遠に持つようにつくった」と語った。
こうして5年半の長期にわたる作業の末、現代の最新技術に支えられた歴史的建造物が〝誕生〟した。
現在の東京駅は八重洲口側、地下を含め、ホテルやオフィス、商業施設など、さまざまな機能が集約。周辺エリアとの一体的な街としての価値向上も進む。もはや東京駅は単なる移動の通過点にとどまらない。
祖父も父も駅長として東京駅を見守ったJR東の百瀬孝東京駅長(59)は「将来にわたって国内外の多くの人々に愛され、出会いと別れの1ページを刻み続けられる丸の内駅舎であってほしい」と願った。
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開業から100年を超える歴史を持つ東京駅には数多くの豆知識が存在する。
まずは令和6年度上期から発行される新一万円札。表面のデザインは実業家の渋沢栄一であることは有名だが、裏面は丸の内駅舎が採用される。理由は「明治・大正期を代表する建築物のため」などとしている。
JR東日本の東京駅長は現在、同社管内で唯一の執行役員以上の駅長だ。他の駅長よりも位置付けが高いとみられるが、同社は「東京駅長の役位について特に定めはない」としている。
線区の起点駅にある「ゼロキロポスト」と呼ばれる距離標の設置は、JR東海分を合わせて15カ所に上る。線路わきの白いくいにキロ数が記されたタイプが一般的だが、東京駅では赤レンガの土台に「0」の形のオブジェが載ったもの、ホームに模様とともに「0Km POINT」と刻まれたものなどバラエティー豊かだ。探して歩いてみるのも楽しい。
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この連載は福田涼太郎が担当しました。