鉄道開業150年

変わる東京駅㊤ こだわり抜いた「玄関口」 構想から30年 明治・大正の熱気凝縮

産経ニュース
東京駅丸の内駅舎=東京都千代田区(三尾郁恵撮影)
東京駅丸の内駅舎=東京都千代田区(三尾郁恵撮影)

日本に鉄道が開業して14日で150周年を迎える。以降、国内の鉄道網は現在に至るまで世界屈指のレベルに発展したが、その中心を担う東京駅の開業は明治5(1872)年の鉄道開業から42年も後だった。計画自体はごく早い段階から検討されながら、用地買収や戦争、西洋化へのこだわりなど紆余曲折(うよきょくせつ)があったためだ。東京の「玄関口」誕生までの経緯をたどる。

「鉄道国有化と日露戦争の勝利を起爆剤として、駅舎としての実用性よりも、新興国家・日本のシンボルとしての象徴性や記念碑的な性格を強調した大建築へと飛躍をとげていった」

「鉄道博物館」(さいたま市)が平成26年に出版した記念誌には、建設当時の東京駅に込められた思いをそのように説明している。

150年前に新橋-横浜間で始まった日本の鉄道網は以後、急速に発展を遂げた。同記念誌によると、現在でいう山手線の駅は明治16年に上野、18年に新宿や渋谷が次々と開業。特に上野からは現在の東北本線が段階的に延伸し、24年には青森に到達。南側の新橋からは、その前の22年に東海道線が神戸に達していた。

物流の観点から東北方面と東海道方面に向かう両ターミナル駅を結ぶ路線の整備が急務となる中、その中間地点に位置する「中央停車場」構想が誕生。これこそが後の東京駅となる。

JR東日本などによると、17年に東京府(現東京都)知事から都市計画に関する意見書が上申され、同構想は内務省の都市計画の一部として公表された。構想段階で既に現在の東京駅の位置とほぼ一致していたといい、22年告示の「東京市区改正設計」によって正式決定した。当時、皇居の東側に位置する建設予定地一帯は陸軍用地で、23年に三菱が払い下げを受けた。敷地内の建物は取り壊され、しばらく「三菱ケ原」と呼ばれる広大な空き地になっていた。

ただ、上野-新橋間を直線的に結ぶルートは市街地を縦断するため、用地買収は容易ではない。そのため品川を起点に東京市街の西側を迂回(うかい)するルートが先に進められていた。鉄道史関連の著作があるJR東元副社長の高松良晴氏は「そのことが東京駅の建設が遅れた大きな要因になった。縦貫ルートをつくる切迫性が薄れてしまった」と話す。

中央停車場を通るルートがおおむね確定したのは、日清戦争を挟んだ30年になってから。その後、用地買収と工事が同時並行で進む中、ドイツ人技師のバルツァーが駅舎の設計を担当した。日本文化に傾倒していたバルツァーは和風駅舎を提案したが、「西洋文明に一歩でも近づこうと努力を続けていた当時の日本人にとっては、到底受け入れられず却下」(同記念誌)。建築家の辰野金吾が後を継いだのは36年で、ルネサンス様式を基調とした「赤レンガ駅舎」でおなじみの丸の内駅舎の設計を終えるまで実に7年を要した。

その間、国の財政難や日露戦争で工程の遅れを余儀なくされた。ただ、ドーム付き3階建ての全長300メートルを超える前例のない大型建築に設計内容が拡大したことも、設計や工事が長期化した一因とされる。

開業は着工から6年9カ月の大正3(1914)年。直前に名称は東京駅となった。工事に携わった作業員は延べ74万人で、建築費用は287万円。それは当時の日本の熱気が具現化された建物といえるだろう。

変わる東京駅㊦ 技術の粋「首都の顔」復活 創建とほぼ同材料 最新設備で進化


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