77回目の終戦の日を迎えた15日、暑さが激しさを増した午後も東京・九段の靖国神社には参拝者は絶えず、先の大戦の戦没者へ鎮魂の祈りをささげていた。
この日参拝に訪れていた東京都大田区の女性(81)は昭和18年に当時36歳だった父を失った。父が戦死したのは大分県佐伯湾。乗っていた艦船が米軍の攻撃を受けて沈没し、戦地から帰ってきた桐の箱には写真1枚が入っていただけだった。
父が戦死したのは3歳のころでほとんど覚えていない。東京・神田の果物屋の生まれだが、店は母に任せて自身は呉服屋で働いていたという。「背の高い、いい男だった」。母が懐かしがったこともあった。
「周りが『お父さん』と言っているのを見るとくやしかった」。夫を亡くした母が弱音を吐くことはなかったという。遠くの父へ「もういいとしだけれど、もう少しここで元気でいさせて」と手を合わせた。
ともに参拝した別の女性(81)=東京都大田区=も16年に当時36歳だった海軍軍人の父を亡くした。現在の中国・湖北省で戦死したというが、詳しい状況は分かっていない。戦禍のウクライナに自身の境遇を重ね「早く戦争をやめてほしい」と願った。
東京都杉並区の無職の男性(78)の義父は早稲田大学を卒業後、建設会社の技師をしていた19年、橋梁(きょうりょう)建設のために南方へ渡る途中に艦船が沈没して亡くなった。「戦争はいけない」。男性は義父に誓った。
横浜市港北区の無職の男性(84)は叔父2人がビルマ(現・ミャンマー)の戦線で戦死。いずれも20代で結婚もしていなかった。ロシアによるウクライナ侵攻で若い兵士が死亡することに心を痛めているといい、「人間同士、知恵をしぼってなんとかならないものか…」と語った。
東京都中央区の会社社長、池田利恵さん(67)の父は特攻隊員だったという。昭和20年4月、沖縄戦への出撃中に迎撃され喜界島海岸に不時着、けがを負った。ともに飛び立った中尉は翌日に沖縄へ飛び立って戦死し、運命は皮一枚で分かれた。「当時、父が不時着してけがをしていなかったら今の自分たちはいない」と思う。大鳥居を前に「当時の話を継承する人が少なくなっている」と危ぶんだ。
境内には若い参拝者の姿も。東京都板橋区の会社員、渡辺真以子さん(23)は大学1年のころから毎年参拝を欠かさない。先祖たちへ「日本を守ってくださった方へ恥じない生き方をしようと思う」と誓った。