日本が戦後の混乱から抜け出し、高度経済成長期に差しかかった昭和30年に起きた「森永ヒ素ミルク中毒事件」。その被害に今も苦しむ人がいる。猛毒のヒ素が混入したミルクを飲んで脳性まひを患い、症状の悪化が続くとして今年5月、大阪市内に住む女性(68)が製造元の森永乳業(東京)に計5500万円の損害賠償を求め、大阪地裁に提訴した。森永乳業側は事件後、恒久的な救済義務を負うと被害者側に約束したが、今回の訴訟では争う姿勢を見せている。
「奇病」とされた中毒症
昭和30年6月ごろ、岡山県を中心に西日本一帯で発熱や嘔吐(おうと)、下痢などを訴える乳幼児が続出。「原因不明の奇病」として、世間を不安に陥れた。
乳幼児の共通点は、森永乳業の粉ミルクを飲んでいたことだった。8月、岡山県衛生部は、同社徳島工場で生産された粉ミルクに大量のヒ素化合物が混入していたと発表。奇病とされた症状は、乳質安定剤として使用した「第二リン酸ソーダ」に含まれていたヒ素による中毒症と判明した。
最終的に、ヒ素中毒で乳児130人が死亡し、約1万2千人が被害を受けたことが認定されたが、折しも当時は産業の発展が優先された高度経済成長期。被害発生当初、厚生省(当時)は簡易検査を頼りに、ミルクを飲んだ多くが「全快」したと判定。専門家による委員会も「ほとんど後遺症の心配はない」と結論づけた。
14年後に後遺症発覚
中毒騒動はいったん幕引きを迎えたが、14年が過ぎた昭和44年、大阪大医学部の丸山博教授らの追跡調査で、被害者67人のうち50人に後遺症とみられる異常が認められた。
「森永ミルク中毒のこどもを守る会」を立ち上げた保護者らは、森永乳業や国に救済を求めた。48年に森永乳業が事件の責任を全面的に認め、恒久的に救済義務を果たす内容で被害者側と合意。守る会と国、森永乳業の三者会談に基づいて、救済のための公益財団法人「ひかり協会」(大阪市)が設立された。
協会では、障害を負った被害者らに対し、手当を毎月支払うほか、医療機関で検診を受けることなどを支援。森永乳業側は運営資金を拠出しており、今年3月で累計約634億円に上っている。
手当は月額7万円
「私に、人間としての誇りを持たせてください」
女性は今月19日、大阪地裁で開かれた第1回口頭弁論で涙ながらに訴えた。
昭和29年に生まれた女性に両親は、「安心安全で育児に良い」と信じ、森永乳業のミルクを与えた。
ところが、ミルクを飲んだ後に中毒症状と思われる発疹と高熱に襲われた。
まひで左半身を思うように動かすことができなくなり、歩き方を見た周囲からは「タコ」「ロボット」などとからかわれた。精神的に追い込まれた小学3年の頃、ベルトを首に巻き付けて自殺を試みたが母親の顔が脳裏をよぎり、ぎりぎりで思いとどまったという。
女性は現在、協会から月額約7万円の手当を受給しているが、症状は年を追うごとに悪化。首や手足の恒常的な痛みやしびれに悩まされる現状を考えると、救済は不十分だと訴える。
定期的に通院しているが歩行器なしでは歩くことができず、帰宅後の疲労はすさまじい。
法廷で森永乳業は、事件について謝罪し、救済事業の完遂まで社会的責任を果たすとした一方、女性の脳性まひについては「先天性のものだ」と主張。女性が求める賠償には応じられないとしている。(地主明世)
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■森永ヒ素ミルク中毒事件 昭和30年、森永乳業徳島工場で生産された粉ミルクの中に大量のヒ素化合物が混入、乳児130人がヒ素中毒で死亡した戦後最大級の食品公害事件。けいれん発作や脳症とみられる症状を訴えた例もあり、医療機関や保健所に保護者らが殺到した。平成27年12月末現在で被害者数は1万3442人。事件の後遺症と闘い続けている。