7月8日昼前、エネルギー情勢に関する会議の最中に驚きの知らせが入ってきた。内容は「奈良で銃撃事件。1名が心肺停止」とのこと。まさかその「1名」が安倍晋三元内閣総理大臣だと誰が信じられようか。
その後もさまざまな情報が入り乱れ、飛び交ったが、あまり芳しい内容ではなかった。頭が混乱したまま、午後2時からの定例記者会見に臨むことに。溢(あふ)れ出る涙を止めることはできなかった。
日本の憲政史上最長の政権を担った安倍元首相が、そんな簡単にこの世を去ってよいものか。病と闘いながら、何度も立ち上がってきた安倍元首相である。何かのまちがいでありますようにと祈ったが、夕刻には非情にも「死去」の2文字が伝わってきた。
あまりに不条理である。
平成18年9月、第1次安倍政権で、光栄にも私は内閣総理大臣補佐官として国家安全保障担当を任じられた。世界を駆け回り、各国の安全保障や情報担当者との連携構築とともに、日本版NSCとなる国家安全保障会議の設立や官邸機能強化など、これまでのどの政権も挑まなかった大きなテーマに取り組ませていただいた。国家公安委員長以外に、政府の役職で「国家」を冠するものはなかったし、報告会の意味合いが強かった安全保障会議の名称に「国家」を冠して、出席大臣を絞ることで、情報保全など機能も格段に強化した。
「三矢(みつや)研究」とよばれる自衛隊による図上訓練が、戦争準備の企(たくら)みだと国会で批判、追及されたり、いわゆる「巻き込まれ」を避けるためには、世界の動きには関与せずとの主張がまかり通ってきた戦後日本である。
このままの日本ではいけないと憂い、自らのリーダーシップであるべき姿を築く、との強い意志で安倍元首相は国家運営に臨まれた。
19年7月には防衛大臣に抜擢(ばってき)され、初のインド公式訪問で、その後の日米豪印マラバール共同訓練の扉を叩(たた)く任務を負えたことは名誉としか言いようがない。
近年では、首相と東京都知事の立場で東京五輪・パラリンピックの開催について、さまざまな角度から分析を行い、史上初の1年延期が実現した。新型コロナウイルスという脅威にさらされ、開催か中止かで世論も揺れる中、延期開催決断を口にしたときの安倍元首相の表情が忘れられない。無観客開催となったものの、各国のリーダーやアスリートから「日本だから開催ができた」と称讃の声が上がったのは安倍元首相の功績である。
今月23日には開催1周年を迎えるが、大会を安倍元首相と振り返ることができないのは無念でならない。
孫子の兵法にある「先に戦地に処りて敵を待つ者は佚(いっ)し、後(おく)れて戦地に処りて戦に趨(おもむ)く者は労す」は、一歩先を見据えながら行動することの大切さを教えてくれる。激動の時代に対応する当たり前の国家とするために、「戦後政治の総決算」と「日本を取り戻す」ための国政に取り組んだ安倍元首相の代わりは容易には見つからない。
弔問と葬儀で両手を合わせ、残された政治家の使命と責任はより重くなると感じている。いくつものレガシーを遺(のこ)した安倍元首相に哀悼の誠を捧(ささ)げ、改めて感謝を申し上げたい。