主張

言論と暴力 死守すべき自由とは何か

産経ニュース
安倍元首相が銃撃された現場付近に設置された献花台で手を合わせる人たち=9日午前8時2分、奈良市
安倍元首相が銃撃された現場付近に設置された献花台で手を合わせる人たち=9日午前8時2分、奈良市

安倍晋三元首相が凶弾に倒れたショックが冷めやらない。銃撃による暴力で言論を封殺したものであり、許されない犯行を怒るのは当然だ。

だが言論は、暴力と完全に対峙(たいじ)できているのだろうか。言葉は時に、暴力ともなり得る。

安倍氏ほど、ありとあらゆる罵詈(ばり)雑言を浴びせられてきた政治家はいまい。メディアや識者、ネット空間に至るまで、さながら「安倍氏には何を言ってもいい」という免罪符があるかのような状況だった。

これらの多くは権力者の宿命というにはあまりに残酷で、時には持病の難病までがからかいの対象となった。

特にネットにおける匿名の書き込みは容赦なく、仮想空間での憎悪表現の氾濫は、ついに現実への垣根を越えた。安倍氏銃撃を、そうみることもできる。

現実に、安倍氏が亡くなった後も、犯行を支持、肯定し、被害者を揶揄(やゆ)するような匿名の投稿があふれている。

「死ね」「シネバ」「氏ぬの」。こんな言葉の数々は死守すべき言論の自由に値するのか。暴力そのものではないか。実際にこれらの言葉にさらされた多くの人が自ら命を絶った。

「保育園落ちた日本死ね」といった書き込みを「魂の叫び」と多くのメディアがもてはやした。

昭和天皇の写真を焼き、踏みにじる映像もあった。それを識者は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」を禁じるとしたヘイトスピーチ対策法を盾に、「憎悪表現の対象外」と解説した。

寄ってたかって社会を歪(ゆが)めてきたという反省はないか。一切の表現の自由を保障した憲法は、一方で自由の範囲を「公共の福祉に反しない限り」と制限している。その重みを再認識すべきだ。

安倍氏はこれまでも遊説先でやじやシュプレヒコールにさらされてきた。予想される危険を考慮すれば、宣伝カーの上や壁を背後にマイクを持つ選択肢もあった。

元首相を銃弾から守れなかった警備陣には猛省を促したいが、聴衆と近距離の同じ目線で語ることを選んだのは、おそらく安倍氏自身だったのだろう。

現実の言葉を身近なものとして届けるためだ。言論の真の力を信じたからだ。その間隙を突かれて凶行を許したのだとすれば、あまりに悔しく、悲しい。

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