劣等感にさいなまれた豊臣秀吉は、己の兄弟姉妹を惨殺する残酷な男だった

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豊臣秀吉と言えば、明るくてひょうきんなイメージが強い。大河ドラマにおける秀吉は、みな一様に底抜けに明るい。「愛されキャラ」だったといえよう。

※画像はイメージです(SankeiBiz編集部 mitsuhiro masuda)
※画像はイメージです(SankeiBiz編集部 mitsuhiro masuda)

とはいえ、それは後世に作れられた虚像に過ぎず、実際の秀吉はとても残酷だった。たとえば、秀吉が養子に迎えた秀次は、高野山(和歌山県高野町)で切腹を命じられた挙句、妻子らも皆殺しにされた。

秀吉は攻城戦を得意としたが、三木城の戦い、鳥取城の戦いで兵糧攻めを採用した。食糧不足に苦しんだ城内は、阿鼻叫喚の生き地獄だったと伝わっている。

秀吉が敵対する勢力に書状を送る際は、相手を屈服させるために激しい言葉で恫喝した。「毛利氏は命乞いをしてきたので、撫で斬りのところを許してやった」、「草木でさえもワシ(秀吉)に靡いている」と述べたことは好例だろう。

秀吉は貧しい出自であること、物乞い同前の生活を送っていたこと、容姿が醜かったことに強いコンプレックスを抱いていた。

その一方で、安国寺恵瓊に「子供の頃のワシ(秀吉)は、物乞いだった」という発言をしていた。秀吉の出自が卑しかったことは、薩摩の島津氏の耳にも入っていたほどだ。

以下、秀吉の容姿、兄弟姉妹を惨殺したエピソードを取り上げることにしよう。

秀吉が「猿」と呼ばれたことは、よく知られている。現在、それは秀吉に多少の親しみを込めたあだ名と解されている。とはいえ、秀吉の「猿」というあだ名は、親しみというよりも、バカにした言葉であるように思える。

この点について、姜沆の『看羊録』には、「賊魁(賊軍の長)秀吉は、尾張州中村郷(名古屋市中村区)の人である。嘉靖丙申(天文5年・1536)に生まれた。容貌が醜く、身体も短小で、様子が猿のようであったので(「猿」というのを)結局幼名とした」と記されている。

姜沆も文禄・慶長の役の際、朝鮮半島から日本に無理やり連行されたので、秀吉には良い印象を抱いていなかった。冒頭に秀吉を「賊魁(賊軍の長)」と記しているのは、そうした理由があったと考えてよい。

同時に「猿」というのは、「かわいい」という意味で用いたのではなく、いささか侮蔑の意を込めているのは明らかである。

李氏朝鮮側の記録『懲毖録(ちょうひろく)』(17世紀前後に成立)には、秀吉に謁見した朝鮮使節が「秀吉は、容貌は小さく卑しげで、顔色は黒っぽく、とくに変わった様子はないが、ただ眼光がいささか閃いて人を射るようであったという」という感想が書き留めている。

背が低く容貌が卑しいというのは、フロイス『日本史』の記述と一致している。眼光が鋭いという感想は、敵ながらも秀吉を評価をしていたのだろうか。

秀吉が美男子ではなかった点については、秀吉自身がフロイスに対して、「皆が見るとおり、予(秀吉)は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と自ら述べている(『日本史』14章)。

この一文を見れば明らかなとおり、秀吉は自身の容姿が良くないことを自覚していたのである。一方で、秀吉は侮られないよう、フロイスを牽制したのだ。

秀吉は出自が貧しかったことや容姿が醜いことを自覚しつつも、「俺をバカにするなよ」と言わんばかりの態度で、常に相手を牽制したようだ。

問題なのは、秀吉には知られざる兄弟がいたということである。秀吉には弟の秀長らの兄弟姉妹がいたが、実はほかにも存在したという。それは、日本側の文献では確認できない秀吉の兄弟姉妹だった。

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