先の大戦中、戦地から家族のもとへ、約400通もの書簡や絵手紙を送り続けた日本兵がいる。沖縄戦で戦死した伊藤半次さん。絵手紙には、妻や子供たちへのあふれるほどの愛情がつづられていた。沖縄戦の終結から77年となる「慰霊の日」の23日、半次さんの孫で福岡県在住の伊藤博文さん(53)が沖縄県を訪れ、祖父の足跡をたどった。(川瀬弘至)
「公喜(きみよし)君、允博(よしひろ)チャン オゲンキデスカ アタタカクナリマシタネ…」
昭和17年の初夏、半次さんが中国東北部の旧満州から日本に送った絵手紙だ。飛行機のおもちゃを持ってほほ笑む、子供の絵が描かれている。
提灯(ちょうちん)職人だった半次さんは16年に陸軍に召集され、旧満州で編成された野戦重砲兵第23連隊に所属。国境警備などにあたるとともに提灯の絵柄づくりの才能を生かし、ほぼ連日のように絵手紙を書いた。
3人の子供たちが遊ぶ姿を想像した絵、妻が慰問袋を用意している絵、その慰問袋を受け取って大喜びする自分の絵…。
日本と中国の子供が笑顔で握手する構図もある。
だが、19年の秋に部隊が沖縄県に移駐してからは、家族のもとに3通しか届かなかった。最後の便りは19年11月、博文さんの父、允博さんにあてたもので、自筆ではなく官製の絵はがきに「(次の便りを)マッテイテチョーダイ」と書かれていた。
20年4月に沖縄戦が本格化し、6月に部隊は玉砕。状況は不明だが、半次さんもそのとき戦死したとみられる。32歳だった。
「祖父の最期が知りたい」。平成25年に死去した允博さんから絵手紙を受け継いだ博文さんは、同年から半次さんの足跡をたどる調査をはじめた。陸軍関係の資料を取り寄せ、沖縄で部隊が転戦した山野を自ら歩き、生存者や地元住民らの話に耳を傾けた。
そして、愛する家族を引き裂く戦争の悲惨さを、身に染みて感じた。
以後、博文さんは各地で絵手紙の展示会や講演会を開催。昨夏には著書『伊藤半次の絵手紙』(集広舎)を刊行するなど、先の大戦の実情を伝える活動に取り組んでいる。
祖父の足跡をたどる旅も、まだ終わっていない。23日、慰霊の日にあわせて沖縄を訪れ、県護国神社を参拝した博文さんは、こう力を込めた。
「熾烈(しれつ)な地上戦の状況を知るにつれ、沖縄は祖父が亡くなった地ではなく、最期まで生き抜いた地であると思うようになった。遺族として、平和の大切さを広く伝えていきたい」