昭和19年に瀬戸内海で起きた伊号第33潜水艦(伊33潜)の沈没事故で、9年後に引き揚げられ犠牲者が荼毘(だび)に付された松山市の興居島に、世代を超えて慰霊を続ける女性たちがいる。伊33潜の悲劇は記録文学の作家、吉村昭氏の「総員起シ」に書かれ広く知られるようになった。「地元じゃけん」「日本のために戦ってくれた人たちじゃから」。女性たちはそういう。不幸な事故を後世に伝える慰霊碑が島の海岸に建っている。
急速潜航訓練で沈没
昭和19年6月13日、瀬戸内海の伊予灘で、急速潜航訓練中の伊33潜は、浸水事故により63メートルの海底に沈んだ。艤装(ぎそう)工事の際、給気筒の弁に木材が挟まったのを見落としたことなどが原因で、ここから海水が艦内に流れ込み、機関室が浸水したのだった。
和田睦雄艦長は最後の非常手段として司令塔にいた者にハッチを開けて脱出するよう命令。自らはとどまった。海上まで浮上できたのは7人ほどで、このうち3人が漁船に救助されたがうち1人はまもなく死亡。生き残ったのは2人だけだった。この事故で102人が亡くなった。
伊33潜が引き揚げられたのは昭和28年6~7月だった。曳航(えいこう)されてきたのが興居島の御手洗海岸。前部の魚雷発射管室は浸水していなかった。そこでは9年の歳月を経ているというのに、肉付きもよく若々しい姿をそのままに亡くなっている海兵13人が見つかった。深い海の低水温で冷蔵庫に入ったような状態で保存されていたのだった。
その時のようすは吉村氏の「総員起シ」に生々しく描かれている。艦内からは油紙に包まれゴムテープでぐるぐる巻きにされた遺書の束も見つかった。母や妹ら肉親に向けた切々とした文字が読み取れたほか、皇居を遥拝(ようはい)し、君が代を歌い、万歳を三唱したと艦内の最期を伝えた人もいた。
遺体は外気に触れると、たちまち腐敗が進んだという。興居島の御手洗海岸で長い時間をかけて荼毘に付された。
翌年6月、慰霊碑が建てられた。建立者は伊33潜を引き揚げた北星船舶工業。愛媛県遺族会などが協力している。それ以降、毎年6月13日に慰霊追悼式が行われてきた。平成5年と同15年には洋上慰霊祭も行われた。
世代つないで続ける慰霊
今年も慰霊碑にはユリやキクの供花をはじめ、果物や菓子、餅、すしなどがたくさんささげられた。心づくしの供物。中心になって世話をしているのは地元の婦人会の人たちだ。開式の時刻に合わせ、手押し車につかまって歩いたり、乗用車に乗り合わせたりして女性たちが三々五々、慰霊碑前に集まってきた。
福島ツネミさん(88)は伊33潜の引き揚げを目撃した。「興居島にはもともと、接待の文化があるんです。(慰霊碑の世話は)母がしとったけん」と慰霊碑の世話を続けている。その娘、平野淳江さん(60)も「できることはしてあげようと思います」と話し、この日は赤飯を炊いてささげた。
いつもお参りをしている合田美智子さん(87)も「母がお参りをしていたから」と話す。高齢化が進む島のことや不穏な国際情勢を念頭に「みんな元気になったらええね」と思いを巡らせた。
池内さと子さん(74)は「ここにおる人がしたげんとね」と話し、池内さんの娘、春夏さん(50)も「やらないかん」と餅を作って死者の霊を慰めた。
徳岡月子さん(95)も、目撃した様子は鮮明に覚えている。「潜水艦を揚げて、遺体を焼いたんですよ。ここに来たら、悲しい。寂しい。お国のために亡くなった方々ですから」。感無量のようすで言葉を詰まらせていた。
父親が沖縄戦で戦死した石川春子さん(78)は「日本のために戦ってくれた人たちなので」と静かに慰霊碑に手を合わせた。
潮風に「海行かば」
参列したのは約30人。一般財団法人「豫山会」も会としては初めて参列した。同会は愛媛県出身者の旧軍人会を母体としており、現在は幹部自衛官OBで構成している。
海上自衛隊呉地方総監を務めた山田道雄さんは会を代表して、「無念にも散華された御霊を慰め、以後、豫山会がこの地に集まり、後世に伝えていくことを誓います。安らかにお眠りください」と慰霊碑に語り掛けた。
参列者らは読経に続いて白菊を一輪ずつ慰霊碑に手向け、最後に「海行かば」を斉唱した。この日は曇り空。波は静かだった。海風に鎮魂のメロディーが流れると、海に向かって手を合わせる女性もいた。
山田さんは「地元の方が真心で70年近くやってくれている。代が変わっても継承していくのは素晴らしいことです」と、地元の人たちに感謝。「訓練中の不慮の事故とあって、任半ばに倒れた人たちのことはあまり知られていない。会として先人の慰霊、顕彰を続けていきたい」と話した。(村上栄一)