本書は清々(すがすが)しい小説である。快作と言ってもよい。物語の終盤、商売がうまくいかなくなった紀伊國屋文左衛門が、せめて種を蒔(ま)こう、命の種を、と思う場面がある。それまで文左衛門は世の中を動かす、ひいては江戸のためになる仕事をしようと考えてきた。が、それができなくなった今、彼の耳に響くのは商売の師・河村十右衛門の「世の中ってのは、詰まるところ人でできているんですよ。あなたの店が傾けば奉公人の命が揺らぎます。そうならないように支えてやることも、世を作る仕事ですから」といった言葉だった。
文左衛門は、世の中を動かせないならせめて世を作る仕事をしたいと考えている。この時から店を閉じるまではわずかであり、彼は奉公人たちに次の身の振り方を決めるまで十分過ぎる程の金子を与えたかったのだ。つまり、それだけの余裕がある内に店を畳む、そして奉公人たちの進む道が決まれば、彼らは新しい形で人の輪に加わり、世を形作るひとりとなってくれるだろう、これが文左衛門の言う世を作ったことになるのである。彼がこうした信念を持つに至ったのは、ひとつの悔いも残さず生きるためであり、それは若き日の許嫁(いいなずけ)の死に端を発している。足弱な許嫁の汐とともに旅に出た文左衛門は、大丈夫だからという汐の我儘(わがまま)を聞いて夜道を急ぐ途中、盗賊に襲われ、路銀はまだしも、汐の操まで奪われてしまったのだ。そして汐は傷心のうちに死す。
本書は、側用人・柳沢吉保、勘定奉行・荻原重秀ら実在の人物を登場させ、元禄から享保期の経済をダイナミックに活写する。そこに文左衛門を参画させ、人間性回復の回路を設けた小説作法は見事と言っていい。
それにしても、不思議なことに、本書で文左衛門の敵役・奈良屋茂左衛門を主人公とした長編や、文左衛門を主人公とした短編はあるのに、これまで長編には恵まれていなかった。
この一巻では、映画や講談でそこばかり強調されていた蜜柑(みかん)船のくだりは一エピソードとして扱われ、そのかわりに文左衛門は人を慈しむ快男児として登場、私たちの中に消え去ることのない像を結んだ。吉川永青の作品中、出色と言ってよく、新たな飛躍へとつながるだろう。(中央公論新社・2090円)
評・縄田一男(文芸評論家)