弘法大師、空海が開基しました。八宗兼学の伝統を受け継ぎ、華厳宗大本山東大寺の末寺です。草庵を営み、自ら造立した秘仏「阿那(あな)地蔵菩薩」を堂内石窟に供養したといわれます。村井勝九郎が享保20(1735)年に著した「奈良坊目拙解」に、「弘法大師以石岩屋、其内石仏之地蔵安置給、故穴之地蔵申伝候」と由来が記されています。
その本堂前に地蔵菩薩が立っています。もともと矢田山の金剛山寺にあったものが常福寺(明治初年に廃寺)へ移された後、ここに移築しました。西を向いて立っているところから「朝日地蔵」とも呼ばれています。室町時代後期の造作とみられ、花崗(かこう)岩製で総高約180センチ、像高約133センチ。別石の蓮華(れんげ)座上に立ち、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を厚肉彫りします。舟形光背の左右に十王像が配され、左側に五体、右側に五体、半肉彫りの像容です。
十王とは冥界で死者の罪を裁く十人の王であり、初七日に秦広(しんこう)王、二七日に初江(しょこう)王、三七日に宋帝(そうてい)王、四七日に五官(ごかん)王、五七日に閻羅(えんら)(閻魔)王、六七日に変成(へんじょう)王、七七日に太山(たいざん)(泰山)王、百箇日に平等(びょうどう)王、一周年に都市(とし)王、三周年に五道転輪(ごどうてんりん)王の裁きを受けます。死後、冥府に至って十王から裁きを受けますが、地獄より済度されるよう、地蔵菩薩の救済を得ることを願ったものです。
衆生における地蔵信仰は地獄から救済される思想で、庶民信仰として深く浸透していたことが分かります。基台石には「矢田地蔵尊模信心施主他力造立」、線香立台に「矢田山文照上人寄付」の刻銘があり、同型の石仏は五劫院(ごこういん)にもあります。
空海寺には安山岩製の地蔵菩薩があり、総高約94センチ、光背頂部に地蔵菩薩種子「カ」が刻まれる半肉彫りの立像です。左側に「天正十二(1584)年甲申正月八日」の紀年銘があります。平城宮跡保存運動に一生をささげながら、非業の死を遂げた棚田嘉十郎の墓もあります。(地域歴史民俗考古研究所所長 辻尾榮市)