宝剣を腰に差したというのは文学的な言辞であって、実際には箱の中から取り出していないと考えられる。二位尼のような立場になれば、「三種の神器を見てはいけない」ということを理解していたであろう。
二位尼が宝剣と神璽を身に付けたのには、2つの理由が考えられる。1つは、たとえあの世に行っても、安徳こそが天皇であって欲しいという願いである。もう1つは、それと裏返しになるが、皇位継承の証である三種の神器を決して後鳥羽(後白河の子で、安徳の後継者)に渡さない、という強い決意である。問題はこの後である。
二位尼と安徳が海中深く沈むと、源氏の武士は先帝(安徳天皇)の船に乱入して、大きな唐櫃の鎖を引きちぎった。その中から箱を取り出し、結ばれている紐を解き、箱を開けようとしたのである。箱の中には神鏡が入っていたのだが、武士たちがそこまで意識していたかはわからない。
箱を開けると、武士たちの目はたちまち眩み、鼻血がだらだらと流れ出したのである。その様子を見た平時忠(二位尼の弟)は、「それは内侍所(神鏡)の箱である。狼藉ではないか」と叫んだ。この言葉を聞いた源義経は、武士らを制止し、神鏡の入った箱を唐櫃に納めたという。義経は、神鏡のことを理解していたに違いない。ちなみに、義経は今後の政局のこともあって、頼朝から三種の神器の確保を厳重に命令されていた。
実は、「目が眩む」「鼻血が出る」というのは、いわゆる神慮であり、天罰が下った証拠であった。当時の記録類を見ると、神慮により天罰を受けて、鼻血が流れ出たという記述が散見される。武士たちは、見てはならないもの(三種の神器)を見てしまったので、天罰が下ったのである。
『平家物語』では、少しばかり話が違っているようである。時忠が「あれは内侍所(神鏡)の箱である。凡夫(一般の人)は見てはいけないものである」と叫んだことになっており、後段の記述が異なっている。
そして、「兵ども舌を振って恐れおののく」とあるように、唐櫃を開けようとした源氏の武士らは、時忠の言葉でことの重大さを悟っているのである。つまり、源氏の武士らは、内侍所(神鏡)の意味を知っていた可能性がある。彼らは、「天罰が下される」と感じたので、恐れおののいたのであろう。
『吾妻鏡』にも、同様の話が伝わっている。安徳天皇・二位尼が海中に沈むと、源氏の武士は安徳らの乗っていた船に乗り移り、賢所(神鏡)の箱を開こうとした。すると、たちまち武士らの両目が眩み、心身虚脱状態に陥ったのである。
ここでも、平時忠が制止を加え、源氏の武士を退去させた。両目が眩んだという点については、『源平盛衰記』の記述と共通点が見られる。いずれにしても、神鏡は寸前のところで、源氏の武士による実見が叶わなかったのである。
京都青蓮院の『覚書』には、ある武士が神璽の箱が海上に浮かんでいるのを拾い上げ、「何物か知らず」中を見たという記述がある。箱は上下に分かれていて、「珠玉」が各5、4個(計8個)入っていたという。この武士には、「鼻血が出る」などの神秘現象は起こらなかったようである。
神鏡を見ようとして、「目が眩んだ」「鼻血が止まらなくなった」あるいは「心身虚脱状態になった」という話はにわかに信じがたく、真偽の程は謎としか言いようがない。しかし、平安末期の時点において、三種の神器は尊重されており、そうした神秘現象の記録はその証といえるであろう。
源氏の武士たちにとって、唐櫃の中身は略奪の対象にしか過ぎなかったかもしれないが、三種の神器への無礼な振る舞いは、先のような奇怪な現象によって阻まれたのである。しかし、時代の変遷とともに、三種の神器への考え方や神秘性は、徐々に変化を遂げることになる。
安徳没後、神鏡と神璽は戻ってきたが、宝剣は海中奥深く沈み、ついに見つかることがなかった。安徳の後に天皇となった後鳥羽天皇は、「神器不帯」というコンプレックスにさいなまれた。後鳥羽は宝剣代(無くなった宝剣の代わり)を創出することによって、ようやく「神器不帯コンプレックス」を克服した。この時代では、三種の神器を擁しないまま即位した天皇は、「不完全」なものとみなされたのである。
追討の先頭に立った源義経は、西国へ出立する前に後白河に召され、三種の神器を無事京都に持ち帰るよう命じられていた(『源平盛衰記』)。これに対して義経は、三種の神器の確保を確約していた。したがって、宝剣を失ったことは、義経をはじめとする征討軍の大きな失策だった。
壇ノ浦の戦い後、鎌倉の源頼朝のもとに、義経からの一巻記が届けられた(『吾妻鏡』)。一巻記の冒頭には、安徳天皇の入水が記されており、末尾には宝剣のみが戻らなかったことが書き留められていた。頼朝は部下が読み上げるのを聞いた後、声を発することができなかったという。
かくして宝剣の探索は、絶対的な至上命令となる。大海の宝剣を探し出すことは、極めて困難を伴う作業であった。しかし、後鳥羽ら朝廷では、執念で探し出そうとした。壇ノ浦における宝剣探索を命じられたのは、厳島神社神主である佐伯景弘である。景弘が探索を命じられたのは、壇ノ浦の合戦のときに宝剣の沈んだ場所を知っているからという理由だった(『百練抄』)。
文治3年(1187)7月20日、景弘は宝剣求使に任じられると、現地へ向かい、海人に宝剣の探索にあたらせた。しかし、探索から2ヵ月後、帰京した景弘の報告は思うようなものでなかった。探索に同行した神祇官、陰陽寮も、宝剣発見の期待を卜占に託すのみであった。
結局、宝剣探索は失敗に終わったが、後鳥羽の執念は衰えず、25年後の建暦2年(1212)、藤原秀能を派遣し、最後の宝剣探索を行ったが、発見に至らなかったことは、言うまでもない。